いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
 男か、女か。
 と、見た体《てい》は、褪《あ》せた尻切《しりきり》の茶の筒袖《つつッぽ》を着て、袖を合わせて、手を拱《こまぬ》き、紺の脚絆穿《きゃはんばき》、草鞋掛《わらじがけ》の細い脚を、車の裏へ、蹈揃《ふみそろ》えて、衝《つ》と伸ばした、抜衣紋《ぬきえもん》に手拭《てぬぐい》を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐《ひも》を深く被《かぶ》ったなりで、がっくりと俯向《うつむ》いたは、どうやら坐眠《いねむ》りをしていそう。
 城の縄張りをした体《てい》に、車の轅《え》の中へ、きちんと入って、腰は床几《しょうぎ》に落したのである。
 飴屋《あめや》か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……

       四

 屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾《べにがなきん》をひらりと釣った、下に横長な掛行燈《かけあんどん》。
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一………………………………坂東よせ鍋《なべ》
一………………………………尾上天麩羅《おのえてんぷら》
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛《わんもり》
一………………………………嵐  お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
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 初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
 名の上へ、藤の花を末濃《すそご》の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女《おかめ》に、黄色な瓢箪男《ひょっとこ》、蒼《あお》い般若《はんにゃ》の可恐《こわ》い面。黒の松葺《まつたけ》、浅黄の蛤《はまぐり》、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
 引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
 坂東あべ川、市村しるこ、渠《かれ》はあまい名を春狐《しゅんこ》と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出《かけだ》しの狂言方であったから。――
「串戯《じょうだん》じゃないぜ。」
 思わず、声を出して独言《ひとりごと》。
「親仁《おとっ》さん、おう、親仁さん。」
 なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕《あらわ》れて、我を諷《ふう》するがごとき浅黄の頭巾《ずきん》は?……
 屋台の様子が、小児《こども》を対手《あいて》で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡《りょうけん》。
「おい、お爺《じ》い。」
と閑《ひま》なあまりの言葉がたき。わざと中《ちゅう》ッ腹に呼んでみたが、寂寞《じゃくまく》たる事、くろんぼ同然。
 で、操《あやつり》の糸の切れたがごとく、手足を突張《つっぱ》りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕《こ》ぐとこそ言え、これは筏《いかだ》を流す体《てい》。
 それに対して、そのまま松崎の分《わか》った袂《たもと》は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
 まだ十歩と離れぬ。
 その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪《ゆが》みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍《いらか》の堆《うずたか》い屋形が一軒。斜《ななめ》に中空をさして鯉《こい》の鱗《うろこ》の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳《そび》えたのがある。
 空屋か、知らず、窓も、門《かど》も、皮をめくった、面に斉《ひと》しく、大《おおき》な節穴が、二ツずつ、がッくり窪《くぼ》んだ眼《まなこ》を揃えて、骸骨《がいこつ》を重ねたような。
 が、月には尾花か、日向《ひなた》の若草、廂《ひさし》に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
 四辺《あたり》に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀《ふないたべい》が水のぬるんだ堰《いせき》に見えて、その前に、お玉杓子《たまじゃくし》の推競《おしくら》で群る状《さま》に、大勢|小児《こども》が集《たか》っていた。
 おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆|動揺《どよ》めく。
 その癖静まって声を立てぬ。
 直《じ》きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷《さじき》うらを来たも同じだと思った。
 役者は舞台で飛んだり、刎《は》ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。

       五

 大当り、尺的《しゃくまと》に矢の刺《ささ》っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵《やれむしろ》を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪《あやし》い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
 取巻いた小児《こども》の上を、鮒《ふな》、鯰《なまず》、黒い頭、緋鯉《ひごい》と見たのは赤い切《きれ》の結綿仮髪《ゆいわたかつら》で、幕の藤の花の末を煽《あお》って、泳ぐように視《なが》められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件《くだんのごとし》、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
 松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服《きもの》に、黒い帯した、円い臀《しり》が、蹠《かかと》をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ歪《ゆが》んだが。
 半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺《ひとどよめき》。
 中に、目の鋭い屑屋《くずや》が一人、箸《はし》と籠《かご》を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻《ねめま》わす。
 もう一人、袷《あわせ》の引解《ひっと》きらしい、汚れた縞《しま》の単衣《ひとえ》ものに、綟《よ》綟れの三尺で、頬被《ほおかぶ》りした、ずんぐり肥《ふと》った赤ら顔の兄哥《あにい》が一人、のっそり腕組をして交《まじ》る……
 二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘《ちび》が、横ちょ、と猪首《いくび》に小児《こども》を背負《しょ》って、唄も唄わず、肩、背を揺《ゆす》る。他は皆、茄子《なすび》の蔓《つる》に蛙の子。
 楽屋――その塀の中《うち》で、またカチカチと鳴った。
 処へ、通《とおり》から、ばらばらと駈《か》けて来た、別に二三人の小児を先に、奴《やっこ》を振らせた趣で、や! あの美しい女《ひと》と、中折《なかおれ》の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降《あまくだ》ったように見えた。
 ここだ、この音だ――と云ったその紳士の言《ことば》を聞いた、松崎は、やっぱり渠等《かれら》も囃子の音に誘われて、男女《なんにょ》のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻《さっき》の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。
 時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと頷《うなず》く……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下《いま》は何も聞えぬ。……
 絵の藤の幕間《まくあい》で、木は入ったが舞台は空しい。
「幕が長いぜ、開けろい。遣《や》らねえか、遣らねえか。」
 とずんぐり者の頬被《ほおかぶり》は肩を揺《ゆす》った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑《おか》しいか、鼻先《はなっさき》の手拭《てぬぐい》の結目《むすびめ》を、ひこひこと遣って笑う。
 様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の群《むれ》に来た、美しい女《ひと》に対して興奮したものらしい。
 実際、雲の青い山の奥から、淡彩《うすいろどり》の友染《ゆうぜん》とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ出《い》でて、淵《ふち》の藍《あい》に影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚《うぐい》が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。
「頼むぜ頭取。」
 頬被《ほおかぶり》がまた喚《わめ》く。

       六

 あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女《おかめ》、瓢箪男《ひょっとこ》の端をばさりと捲《まく》ると、月代《さかやき》茶色に、半白《ごましお》のちょん髷仮髪《まげかつら》で、眉毛の下《さが》った十ばかりの男の児《こ》が、渋団扇《しぶうちわ》[#「団扇」は底本では「団扉」]の柄を引掴《ひッつか》んで、ひょこりと登場。
「待ってました。」
 と頬被が声を掛けた。
 奴《やっこ》は、とぼけた目をきょろんと遣《や》ったが、
「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」
 と高慢な口を利いて、尻端折《しりはしょ》りの脚をすってん、刎《は》ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後《うしろ》向きに、ちょっきり結びの紺兵児《こんへこ》の出尻《でっちり》で、頭から半身また幕へ潜《くぐ》ったが、すぐに摺抜《すりぬ》けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈《ふるあんどん》を提げて出て、筵《むしろ》の上へ、ちょんと直すと、奴《やっこ》はその蔭で、膝を折って、膝開《ひざはだ》けに踏張《ふんば》りながら、件《くだん》の渋団扇で、ばたばたと煽《あお》いで、台辞《せりふ》。
「米が高値《たか》いから不景気だ。媽々《かかあ》めにまた叱られべいな。」
 でも、ちょっと含羞《はにか》んだか、日に焼けた顔を真赤《まっか》に俯向《うつむ》く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻《うま》いものなり。
「いよ、牛鍋。」と頬被。
 片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋《うどんや》の親仁《おやじ》である。
 チャーン、チャーン……幕の中《うち》で鉦《かね》を鳴らす。
 ――迷児《まいご》の、迷児の、迷児やあ――
 呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟《どんぐり》ほどな背丈を揃えて、紋羽《もんば》の襟巻を頸《くび》に巻いた大屋様。月代《さかやき》が真青《まっさお》で、鬢《びん》の膨れた色身《いろみ》な手代、うんざり鬢の侠《いさみ》が一人、これが前《さき》へ立って、コトン、コトンと棒を突く。
「や、これ、太吉さん、」
 と差配様《おおやさま》声を掛ける。中の青月代《あおさかやき》が、提灯《ちょうちん》を持替えて、
「はい、はい。」と返事をした。が、界隈《かいわい》の荒れた卵塔場から、葬礼《とむらい》あとを、引攫《ひっさら》って来たらしい、その提灯は白張《しらはり》である。
 大屋は、カーンと一つ鉦《かね》を叩いて、
「大分|夜《よ》が更けました。」
「亥刻《いのこく》過ぎでございましょう、……ねえ、頭《かしら》。」
「そうよね。」
 と棒をコツン、で、くすくすと笑う。
「笑うな、真面目《まじめ》に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。
 差配様が小首を傾け、
「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行《ある》きますが、誰某《だれそれ》と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」
「私《わっし》もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方《さき》で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す奴《やつ》もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。
「まずさね……それで闇《くら》がりから顔を出せば、飛んだ妖怪《ばけもの》でござりますよ。」
 青月代の白男《しろおとこ》が、袖を開いて、両方を掌《て》で圧《おさ》え、
「御道理《ごもっとも》でござい
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