者《くせもの》の手を引張つて遠ざかつた。
吻《ほっ》と呼吸《いき》して、面《おもて》の美しさも凄《すご》いまで蒼白《あおじろ》く成りつつ、階《きざはし》に、紅《くれない》の袴《はかま》をついた、お局《つぼね》の手を、振袖《ふりそで》で抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの危《あやう》さを思ふにつけ、安心の涙である。
下々《しもじも》の口から漏《も》れて、忽《たちま》ち京中《きょうちゅう》洛中《らくちゅう》は是沙汰《これさた》だが――乱心ものは行方が知れない。
二
「やあ、小法師《こほうし》。……」
こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、霧《きり》と、霜《しも》と、あの蘆《あし》の湖《こ》と、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
繰返して言ふが、文政《ぶんせい》初年|霜月《しもつき》十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の渚《なぎさ》である。
霧は濃くかゝつたが、関所は然《さ》まで遠くない。峠《とうげ》も三島寄《みしまより》の渚に、憚《はばか》らず、ばちや/\と水音《みずおと》を立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち/\と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
鷺《さぎ》、獺《かわうそ》、猿《ましら》の類《たぐい》が、魚《うお》を漁《あさ》るなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、怪《け》しからず凄《すさま》じいことは、さながら狼《おおかみ》が出て竜宮の美女たちを追廻《おいまわ》すやうである。
が、耳も牙《きば》もない、毛坊主《けぼうず》の円頂《まるあたま》を、水へ逆《さかさま》に真俯向《まうつむ》けに成つて、麻《あさ》の法衣《ころも》のもろ膚《はだ》脱いだ両手両脇へ、ざぶ/\と水を掛ける。――恁《かか》る霜夜《しもよ》に、掻乱《かきみだ》す水は、氷の上を稲妻《いなずま》が走るかと疑はれる。
あはれ、殊勝な法師や、捨身《しゃしん》の水行《すいぎょう》を修《しゅ》すると思へば、蘆《あし》の折伏《おれふ》す枯草《かれくさ》の中に籠《かご》を一個《ひとつ》差置《さしお》いた。が、鯉《こい》を遁《にが》した畚《びく》でもなく、草を刈《か》る代《しろ》でもない。屑屋《くずや》が荷《にな》ふ大形《おおがた》な鉄砲笊《てっぽうざる》に、剰《あまつさ》へ竹のひろひ箸《ばし》をスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、小法師《こほうし》、小法師。」
もの幻の霧の中に、あけの明星の光明《こうみょう》が、嶮山《けんざん》の髄《ずい》に浸透《しみとお》つて、横に一幅《ひとはば》水が光り、縦に一筋《ひとすじ》、紫《むらさき》に凝《こ》りつつ真紅《まっか》に燃ゆる、もみぢに添ひたる、三抱余《みかかえあま》り見上げるやうな杉の大木《たいぼく》の、梢《こずえ》近い葉の中から、梟《ふくろう》の叫ぶやうな異様なる声が響くと、
「羽黒《はぐろ》の小法師ではないか。――小法師。」
と言ふ/\、枝葉《えだは》にざわ/\と風を立てて、然《しか》も、音もなく蘆の中に下立《おりた》つたのは、霧よりも濃い大山伏《おおやまぶし》の形相である。金剛杖《こんごうづえ》を丁《ちょう》と脇挟《わきばさ》んだ、片手に、帯の結目《むすびめ》をみしと取つて、黒紋着《くろもんつき》、袴《はかま》の武士《さむらい》を俯向《うつむ》けに引提《ひきさ》げた。
武士《ぶし》は、紐《ひも》で引《ひっ》からげて胸へ結んで、大小を背中に背負《しょ》はされて居る。卑俗な譬《たとえ》だけれど、小児《こども》が何とかすると町内を三|遍《べん》廻らせられると言つた形で、此が大納言の御館《みたち》を騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
と小法師の擡《もた》げた顔の、鼻は鉤形《かぎなり》に尖《とが》つて、色は鳶《とび》に斉《ひと》しい。青黒《あおぐろ》く、滑々《ぬらぬら》とした背膚《せはだ》の濡色《ぬれいろ》に、星の影のチラ/\と映《さ》す状《さま》は、大鯰《おおなまず》が藻《も》の花を刺青《ほりもの》したやうである。
「これは、秋葉山《あきばさん》の御行者《おぎょうじゃ》。」
と言ひながら、水しぶきを立てて、身体《からだ》を犬ぶるひに振つた。
「御身《おみ》は京都の返りだな。」
「然《さ》れば、虚空《こくう》を通り掛《がか》りぢや。――御坊《ごぼう》によう似たものが、不思議な振舞《ふるまい》をするに依《よ》つて、大杉《おおすぎ》に足を踏留《ふみと》めて、葉越《はごし》に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視《み》て、拙道《せつどう》、胆《きも》を冷《ひや》したぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯《みずいたずら》ぢや。悪戯《いたずら》は仔細ないが、羽《は》ぶしの怪我《けが》で、湖《うみ》に墜《お》ちて、溺《おぼ》れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
と事もなげに笑つて、
「いや、些《ち》と身に汚《けが》れがあつて、不精《ぶしょう》に、猫の面洗《つらあら》ひと遣《や》つた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ明朝《あした》は天気だ。まあ休め。」
と法衣《ころも》の袖《そで》を通して言ふ。……吐《は》く呼吸《いき》の、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個《ふたつ》とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面《おもて》に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の小法師《こほうし》、秋葉の行者《ぎょうじゃ》、二個は疑《うたがい》もなく、魔界の一党、狗賓《ぐひん》の類属。東海、奥州、ともに名代《なだい》の天狗《てんぐ》であつた。
三
「成程《なるほど》、成程、……御坊《ごぼう》の方は武士《さむらい》であつた。」
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
「然《さ》れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫《ひきさろ》うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館《おんやかた》へ、然《しか》も、念入りに、十二|間《けん》のお廊下へドタリと遣《や》つた。」
「おゝ御館《おやかた》では、藤の局《つぼね》が、我折《がお》れ、かよわい、女性《にょしょう》の御身《おんみ》。剰《あまつさ》へ唯《ただ》一人にて、すつきりとしたすゞしき取計《とりはから》ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
と云つた山伏《やまぶし》は、真赤な鼻を撮《つま》むやうに、つるりと撫《な》でて、
「最早知つたか。」
「洛中《らくちゅう》の是沙汰《これさた》。関東一円、奥州まで、愚僧が一山《いっさん》へも立処《たちどころ》に響いた。いづれも、京方《きょうがた》の御為《おんため》に大慶《たいけい》に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷《すばや》い。」
「やあ、如何《いかが》な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失《あやまり》。……愚僧、早合点《はやがてん》の先ばしりで、思ひ懸《が》けない隙入《ひまいり》をした。御身《おみ》と同然に、愚僧|等《ら》御司配《ごしはい》の命令《おおせ》を蒙《こうむ》り、京都と同じ日、先《ま》づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住《せんじゅ》の大橋《おおはし》、上野の森を一《ひと》のしに、濠端《ほりばた》の松まで飛んで出た。かしこの威徳|衰《おとろ》へたりと雖《いえど》も、さすがは征夷《せいい》大将軍の居城《きょじょう》だ、何処《いずこ》の門も、番衆、見張、厳重にして隙間《すきま》がない。……ぐるり/\と窺《うかが》ふうちに、桜田門の番所|傍《そば》の石垣から、大《おおき》な蛇《へび》が面《つら》を出して居るのを偶《ふ》と見つけた。霞《かすみ》ヶ|関《せき》には返り咲《ざき》の桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬籠《ふゆごも》りの長隠居、炬燵《こたつ》から這出《はいだ》したものと見える。早《は》や往来《おうらい》は人立《ひとだち》だ。
処《ところ》へ、遙《はるか》に虚空《こくう》から大鳶《おほとび》が一羽《いちわ》、矢のやうに下《おろ》いて来て、すかりと大蛇《おおへび》を引抓《ひきつか》んで飛ばうとすると、這奴《しゃつ》も地所持《じしょもち》、一廉《いっかど》のぬしと見えて、やゝ、其の手は食《く》はぬ。さか鱗《うろこ》を立てて、螺旋《らせん》に蜿《うね》り、却《かえ》つて石垣の穴へ引かうとする、抓《つか》んで飛ばうとする。揉《も》んだ、揉んだ。――いや、夥《おびただ》しい人群集《ひとだかり》だ。――そのうちに、鳶の羽《は》が、少しづゝ、石垣の間《あいだ》へ入る――聊《いささ》かは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、片翼《かたつばさ》が隠れたと思ふと、するりと呑《の》まれて、片翼だけ、ばさ/\ばさ、……煽《あお》つて煽つて、大《おお》もがきに藻掻《もが》いて堪《こら》へる。――見物は息を呑《の》んだ。」
「うむ/\。」
と、山伏《やまぶし》も息を呑む。
「馬鹿鵄《ばかとび》よ、くそ鳶《とび》よ、鳶《とんび》、鳶《とんび》、とりもなほさず鳶《とび》は愚僧だ、はゝゝゝ。」
と高笑ひして、
「何と、お行者《ぎょうじゃ》、未熟なれども、羽黒の小法師《こほうし》、六|尺《しゃく》や一|丈《じょう》の蛇《ながむし》に恐れるのでない。こゝが術《て》だ。人間の気を奪ふため、故《ことさ》らに引込《ひきこ》まれ/\、やがて忽《たちま》ち其《その》最後の片翼《かたつばさ》も、城の石垣につツと消えると、いままで呼吸《いき》を詰めた、群集《ぐんじゅ》が、阿《あ》も応《おう》も一斉《いっとき》に、わツと鳴つて声を揚げた。此の人声《ひとごえ》に驚いて、番所の棒が揃《そろ》つて飛出《とびだ》す、麻上下《あさがみしも》が群れ騒ぐ、大玄関《おおげんかん》まで騒動の波が響いた。
驚破《すわ》、そのまぎれに、見物の群集《ぐんじゅ》の中から、頃合《ころあい》なものを引攫《ひきさら》つて、空からストンと、怪我《けが》をせぬやうに落《おと》いた。が、丁度《ちょうど》西の丸の太鼓櫓《たいこやぐら》の下の空地だ、真昼間《まっぴるま》。」
「妙《みょう》。」
と、山伏がハタと手を搏《う》つて、
「御坊《ごぼう》が落した、試みのものは何ぢや。」
「屑屋《くずや》だ。」
「はて、屑屋とな。」
「紙屑買《かみくずかい》――即《すなわ》ち此だ。」
と件《くだん》の大笊《おおざる》を円袖《まるそで》に掻寄《かきよ》せ、湖の水の星あかりに口を向けて、松虫《まつむし》なんぞを擽《くすぐ》るやうに笊《ざる》の底を、ぐわさ/\と爪で掻くと、手足を縮めて掻《かい》すくまつた、垢《あか》だらけの汚《きたな》い屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの千草《ちぐさ》の股引《ももひき》を割膝《わりひざ》で、こくめいに、枯蘆《かれあし》の裡《なか》にかしこまる。
此の人間の気が、ほとぼりに成つて通《かよ》つたと見える。ぐたりと蛙《かえる》を潰《つぶ》したやうに、手足を張つて平《へた》ばつて居た狂気武士《きちがいざむらい》が、びくりとすると、むくと起きた。が、藍《あい》の如き顔色《がんしょく》して、血走つたまゝの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りつつ、きよとりとして居る。
四
此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。――薩摩《さつま》鹿児島に、小給《しょうきゅう》の武士の子で年《とし》十四に成るのが、父の使《つかい》に書面を持つて出た。朝|五《いつ》つ時《どき》の事で、侍町《さむらいまち》の人通りのない坂道を上《のぼ》る時、大鷲《おおわし》が一羽、虚空《こくう》から巌《いわ》の落下《おちさが》るが如く落して来て、少年を引掴《ひっつか》むと、忽《たちま》ち雲を飛んで行く。少年は夢現《ゆめうつつ》ともわきまへぬ。が、とに角《かく》大空を行くのだから、落つれば一堪《ひとたま》りもなく、粉微塵《こなみじん》に成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成る
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