いて片頬《かたほ》を撫《な》でた手をそのまま、欄干に肱《ひじ》をついて、遍《あまね》く境内をずらりと視《なが》めた。
 早いもので、もう番傘の懐手《ふところで》、高足駄で悠々と歩行《ある》くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々《いろいろ》な処へ、これから奥は、御堂の背後《うしろ》、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯《ひきょう》な、相合傘《あいあいがさ》に後《おく》れは取らぬ、と肩の聳《そび》ゆるまで一人で気競《きお》うと、雨も霞《かす》んで、ヒヤヒヤと頬《ほお》に触る。一雫も酔覚《よいざめ》の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……
 が、見透《みとお》しのどこへも、女の姿は近づかぬ。
「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」
 と打棄《うっちゃ》り放す。
 大提灯にはたはたと翼《つばさ》の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠《こも》る廂《ひさし》から、鳩が二三羽、衝《つ》と出て飜々《ひらひら》と、早や晴れかかる銀杏《いちょう》の梢《こずえ》を矢大臣門の屋根へ飛んだ。
 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆《ばあ》の前を、内端《うちば》な足取り、裳《もすそ》を細く、蛇目傘《じゃのめ》をやや前下りに、すらすらと撫肩《なでがた》の細いは……確《たしか》に。
 スーと傘《からかさ》をすぼめて、手洗鉢《みたらし》へ寄った時は、衣服《きもの》の色が、美しく湛《たた》えた水に映るか、とこの欄干から遥《はる》かな心に見て取られた。……折からその道筋には、件《くだん》の女ただ一人で。
 水色の手巾《ハンケチ》を、はらりと媚《なまめ》かしく口に啣《くわ》えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方《かた》を見上げた。
 のめのめとそこに待っていたのが、了簡《りょうけん》の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後《うしろ》向きに横へ廻る。
 パッパッと田舎の親仁《おやじ》が、掌《てのひら》へ吸殻を転がして、煙管《きせる》にズーズーと脂《やに》の音。くく、とどこかで鳩の声。茜《あかね》の姉《あねえ》も三四人、鬱金《うこん》の婆様《ばさま》に、菜畠《なばたけ》の阿媽《かかあ》も交《まじ》って、どれも口を開けていた。
 が、あ、と押魂消《おったまげ》て、ばらりと退《の》くと、そこの横手の開戸口《ひらきどぐち》から、艶麗《あでやか》なのが、すうと出た。
 本堂へ詣《まい》ったのが、一廻りして、一帆の前に顕《あら》われたのである。
 すぼめた蛇目傘《じゃのめ》に手を隠して、
「お待ちなすって?」
 また、ほんのりと花の薫《かおり》。
「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣《まいり》をなされば可《い》い。」
「貴下《あなた》こそ、前《さき》へいらしってお待ち下されば可《よ》うござんすのに、出張《でっぱ》りにいらしって、沫《しぶき》が冷《つめた》いではありませんか。」
 さっさと先へ行《ゆ》けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据《すわ》って、
「だって雨を潜《くぐ》って、一人でびしょびしょ歩行《ある》けますか。」
「でも、その方がお好《すき》な癖に……」
 と云って、肩でわざとらしくない嬌態《しな》をしながら、片手でちょいと帯を圧《おさ》えた。ぱちん留《どめ》が少し摺《ず》って、……薄いが膨《ふっく》りとある胸を、緋鹿子《ひがのこ》の下〆《したじめ》が、八ツ口から溢《こぼ》れたように打合わせの繻子《しゅす》を覗《のぞ》く。
 その間に、きりりと挟んだ、煙管筒《きせるづつ》? ではない。象牙骨《ぞうげぼね》の女扇を挿している。
 今圧えた手は、帯が弛《ゆる》んだのではなく、その扇子《おうぎ》を、一息探く挿込んだらしかった。

       五

 紫の矢絣《やがすり》に箱迫《はこせこ》の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜《やみざくら》とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅《うすくれない》のちらちらする凄《すご》い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘《こんじゃのめ》も肖《そぐ》わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子《おうぎ》は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古《けいこ》の帰途《かえり》なら、相応したのがあろうものを、初手《しょて》から素性のおかしいのが、これで愈々《いよいよ》不思議になった。
 が、それもその筈《はず》、あとで身上《みじょう》を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品《むすめてじな》、と云うのであった。
 思い懸けず、余《あんま》り変ってはいたけれども、当人の女の名告《なの》るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言《うそ》だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方《こな
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