疋《いつぴき》の蜘蛛|垂下《たれさが》り、お春の頬に取着《とりつ》くにぞ、あと叫びて立竦《たちすく》める、咽喉《のんど》を伝ひ胸に入り、腹より背《せな》に這廻《はひまは》れば、声をも得《え》立てず身を悶《もだ》え虚空《こくう》を掴《つか》みて苦《くるし》みしが、はたと僵《たふ》れて前後を失ひけり。夜更《よふけ》の事とて誰《たれ》も知らず、朝《あした》になりて見着《みつ》けたる、お春の身体《からだ》は冷たかりき、蜘蛛の這《は》へりし跡やらむ、縄にて縊《くび》りし如く青き条《すぢ》をぞ画《ゑが》きし。
 眼前《まのあたり》お春が最期《さいご》を見てしより、旗野の神経|狂出《くるひだ》し、あらぬことのみ口走りて、一月余《ひとつきあまり》も悩みけるが、一夜《あるよ》月の明《あきら》かなりしに、外方《とのかた》に何やらむ姿ありて、旗野をおびき出《いだ》すが如く、主人《あるじ》は居室《ゐま》を迷出《まよひい》でて、漫《そゞ》ろに庭を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》ひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐《をどりかゝ》りて、えいと殺《そ》ぎたる竹の切口《きりくち》、斜《なゝめ》に尖《とが》れる切先《きつさき》に転《まろ》べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家《ぶつけ》の因果は是《これ》ならむかし。
 旗野の主人果てて後《のち》、代《よ》を襲《つ》ぐ子とても無かりければ、やがて其《その》家《いへ》は断絶《たえ》にけり。
 数歳《すさい》の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々《さま/″\》人の住替《すみかは》りしが、一月《ひとつき》居《ゐ》しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚《はなは》だしきに到りては、一夜《ひとよ》を超えて引越せしもあり。松川|彼処《かしこ》に住《すま》ひてより、別に変《かは》りしこともなく、二月《ふたつき》余も落着《おちつ》けるは、いと珍しきことなりと、近隣《きんりん》の人は噂《うはさ》せり。さりながらはじめの内は十幾人《じふいくたり》の塾生ありて、教場《けうぢやう》太《いた》く賑ひしも、二人《ふたり》三人《みたり》と去りて、果《はて》は一人《いちにん》もあらずなりて、後《のち》にはたゞ昼《ひる》の間《うち》通学生の来るのみにて、塾生は我《われ》一人《いち
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