をして、活《い》きると思《おも》へば平氣《へいき》で可《よ》し、死《し》ぬと思《おも》や靜《しづか》に未來《みらい》を考《かんが》へて、念佛《ねんぶつ》の一《ひと》つも唱《とな》へたら何《ど》うぢや、何方《どつち》にした處《ところ》が、わい/\騷《さわ》ぐことはない。はて、見苦《みぐる》しいわい。
然《しか》し私《わし》も出家《しゆつけ》の身《み》で、人《ひと》に心配《しんぱい》を懸《か》けては濟《す》むまい。可《よ》し、可《よ》し。」
と渠《かれ》は獨《ひと》り頷《うなづ》きつゝ、從容《しようよう》として立上《たちあが》り、甲板《デツキ》の欄干《てすり》に凭《よ》りて、犇《ひしめ》き合《あ》へる乘客等《じようかくら》を顧《かへり》みて、
「いや、誰方《どなた》もお騷《さわ》ぎなさるな。もう斯《か》うなつちや神佛《かみほとけ》の信心《しんじん》では皆《みな》の衆《しう》に埒《らち》があきさうもないに依《よ》つて、唯《たゞ》私《わし》が居《ゐ》なければ大丈夫《だいぢやうぶ》だと、一生懸命《いつしやうけんめい》に信仰《しんかう》なさい、然《さ》うすれば屹度《きつと》助《たす》かる。宜《よろ》しいか/\。南無《なむ》、」
と一聲《ひとこゑ》、高《たか》らかに題目《だいもく》を唱《とな》へも敢《あ》へず、法華僧《ほつけそう》は身《み》を躍《をど》らして海《うみ》に投《とう》ぜり。
「身投《みなげ》だ、助《たす》けろ。」
船長《せんちやう》の命《めい》の下《もと》に、水夫《すいふ》は一躍《いちやく》して難《なん》に赴《おもむ》き、辛《から》うじて法華僧《ほつけそう》を救《すく》ひ得《え》たり。
然《しか》りし後《のち》、此《こ》の(一人坊主《ひとりばうず》)は、前《さき》とは正反對《せいはんたい》の位置《ゐち》に立《た》ちて、乘合《のりあひ》をして却《かへ》りて我《われ》あるがために船《ふね》の安全《あんぜん》なるを確《たしか》めしめぬ。
如何《いかん》となれば、乘客等《じようかくら》は爾《しか》く身《み》を殺《ころ》して仁《じん》を爲《な》さむとせし、此《この》大聖人《だいせいじん》の徳《とく》の宏大《くわうだい》なる、天《てん》は其《そ》の報酬《はうしう》として渠《かれ》に水難《すゐなん》を與《あた》ふべき理由《いはれ》のあらざるを斷《だん》じ、恁《かゝ》る聖
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