竜潭譚
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)躑躅《つつじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五、六尺|隔《へだ》てたる
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》
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躑躅《つつじ》か丘《おか》
日は午《ご》なり。あらら木《ぎ》のたらたら坂に樹《き》の蔭もなし。寺の門《もん》、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟《さしはさ》みて町の入口にはあたれど、のぼるに従ひて、ただ畑《はた》ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処《ところ》に見ゆ。谷には菜《な》の花《はな》残りたり。路《みち》の右左、躑躅《つつじ》の花の紅《くれない》なるが、見渡す方《かた》、見返る方《かた》、いまを盛《さかり》なりき。ありくにつれて汗《あせ》少しいでぬ。
空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野面《のづら》を吹けり。
一人にては行《ゆ》くことなかれと、優《やさ》しき姉上のいひたりしを、肯《き》かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方《かた》より一束《ひとたば》の薪《たきぎ》をかつぎたる漢《おのこ》おり来《きた》れり。眉《まゆ》太く、眼《め》の細きが、向《むこう》ざまに顱巻《はちまき》したる、額《ひたい》のあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、
「危ないぞ危ないぞ。」
といひずてに眦《まなじり》に皺《しわ》を寄せてさつさつと行過《ゆきす》ぎぬ。
見返ればハヤたらたらさがりに、その肩《かた》躑躅《つつじ》の花にかくれて、髪《かみ》結《ゆ》ひたる天窓《あたま》のみ、やがて山蔭《やまかげ》に見えずなりぬ。草がくれの径《こみち》遠く、小川流るる谷間《たにあい》の畦道《あぜみち》を、菅笠《すげがさ》冠《かむ》りたる婦人《おんな》の、跣足《はだし》にて鋤《すき》をば肩にし、小さき女《むすめ》の児《こ》の手をひきて彼方《あなた》にゆく背姿《うしろすがた》ありしが、それも杉の樹立《こだち》に入りたり。
行《ゆ》く方《かた》も躑躅なり。来《こ》し方《かた》も躑躅なり。山土《やまつち》のいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる一株《ひとかぶ》の躑躅のなかより、羽音《はおと》たかく、虫のつと立ちて頬を掠《かす》めしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺|隔《へだ》てたる処《ところ》に礫《つぶて》のありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五、六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾ひあげて狙《ねら》ひうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまはりて、また旧《もと》のやうにぞをる。追ひかくれば迅《はや》くもまた遁《に》げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとささやかなる羽《は》ばたきして、鷹揚《おうよう》にその二《ふた》すぢの細き髯《ひげ》を上下《うえした》にわづくりておし動かすぞいと憎《にく》さげなりける。
われは足踏《あしぶみ》して心《こころ》いらてり。そのゐたるあとを踏みにじりて、
「畜生、畜生。」
と呟《つぶや》きざま、躍《おど》りかかりてハタと打ちし、拳《こぶし》はいたづらに土によごれぬ。
渠《かれ》は一足《ひとあし》先なる方《かた》に悠々《ゆうゆう》と羽《は》づくろひす。憎しと思ふ心を籠《こ》めて瞻《みまも》りたれば、虫は動かずなりたり。つくづく見れば羽蟻《はあり》の形して、それよりもやや大《おおい》なる、身はただ五彩《ごさい》の色を帯びて青みがちにかがやきたる、うつくしさいはむ方《かた》なし。
色彩あり光沢《こうたく》ある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出《い》でたれば、打置《うちお》きてすごすごと引返《ひつかえ》せしが、足許《あしもと》にさきの石の二《ふた》ツに砕《くだ》けて落ちたるより俄《にわか》に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。
このたびはあやまたず、したたかうつて殺しぬ。嬉《うれ》しく走りつきて石をあはせ、ひたと打《うち》ひしぎて蹴飛《けと》ばしたる、石は躑躅《つつじ》のなかをくぐりて小砂利《こじやり》をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。
袂《たもと》のちり打《うち》はらひて空を仰《あお》げば、日脚《ひあし》やや斜《ななめ》になりぬ。ほかほかとかほあつき日向《ひなた》に唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず痒《がゆ》きこと限りなかりき。
心着《こころづ》けば旧来《もとき》し
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