へて姉上はまろび入りて、ひしと取着《とりつ》きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん情《なさけ》手《て》にこもりて抱《いだ》かれたるわが胸|絞《しぼ》らるるやうなりき。
 姉上の膝に臥《ふ》したるあひだに、医師|来《きた》りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに彼方《あなた》に去りぬ。
「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様《ねえさん》はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」
 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕《るいこん》したたるばかりなり。
 その心の安んずるやう、強《し》ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。
「おお、薄気味《うすきみ》が悪いねえ。」
 と傍《かたわら》にありたる奈四郎《なしろう》の妻なる人|呟《つぶや》きて身ぶるひしき。
 やがてまた人々われを取巻《とりま》きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて疑《うたがい》を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問《ねど》ひ、葉問《はど》ひするに一々《いちいち》説明《ときあ》かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。
 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆《みな》人の疑《うたがい》を増すをいかにせむ。ひしと取籠《とりこ》めて庭にも出《いだ》さで日を過しぬ。血色わるくなりて痩《や》せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見《うしろみ》の叔父夫婦にはいとせめて秘《かく》しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺《かどべ》にありたる多くの児《こ》ども我が姿を見ると、一斉《いつせい》に、アレさらはれものの、気狂《きちがい》の、狐つきを見よやといふいふ、砂利《じやり》、小砂利《こじやり》をつかみて投げつくるは不断《ふだん》親しかりし朋達《ともだち》なり。
 姉上は袖《そで》もてわれを庇《かば》ひながら顔を赤うして遁《に》げ入りたまひつ。人目なき処《ところ》にわれを引据《ひきす》ゑつと見るまに取つて伏《ふ》せて、打ちたまひぬ。
 悲しくなりて泣出《なきだ》せしに、あわただしく背《せな》をばさすりて、
「堪忍《かんにん》しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」
 といひかけて、
「私《わたし》あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説《かきくど》きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確《たしか》に、心を鎮《しず》めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危《あや》ぶむやうそのたびになりまさりて、果《はて》はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。
 たとへば怪《あや》しき糸の十重二十重《とえはたえ》にわが身をまとふ心地《ここち》しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思《おもい》あり。それをば刈払《かりはら》ひ、遁出《のがれい》でむとするにその術《すべ》なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉《まゆ》を顰《ひそ》め、嘲《あざけ》り、笑ひ、卑《いやし》め、罵《ののし》り、はた悲《かなし》み憂《うれ》ひなどするにぞ、気あがり、心《こころ》激《げき》し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
 口惜《くちお》しく腹立たしきまま身の周囲《まわり》はことごとく敵《かたき》ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠《とりかご》も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一《ひと》たびわれを見てその弟を忘れしことあり。塵《ちり》一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化《け》したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現《げん》じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復《かいふく》を祈る言《ことば》もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、一《ひと》たびおもひては堪《た》ふべからず、力あらば恣《ほしいまま》にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛《けと》ばしやらむ、掻《かき》むしらむ、透《すき》あらばとびいでて、九《ここの》ツ谺《こだま》とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの許《もと》に遁《に》げ去らむと、胸の湧《わ》きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。

     千呪陀羅尼《せんじゆだらに》

 毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優《やさ》しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵《ののし》り叫びてあれたりしが、つひには声も出《い》でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地
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