《あなや》と叫びぬ。
人顔《ひとがお》のさだかならぬ時、暗き隅《すみ》に行《ゆ》くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑《まど》はすと、姉上の教へしことあり。
われは茫然《ぼうぜん》として眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手《ゆんで》に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出《い》づると思ふ黒《こく》闇々《あんあん》たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社《やしろ》の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞《ふさ》ぎ、呼吸《いき》をころしてひそみたるに、四足《よつあし》のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。
われは人心地《ひとごこち》もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女《ひと》のうつくしかりし顔、優《やさし》かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児《こ》どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに潜《ひそ》め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯《こぢようちん》の火影《ほかげ》あかきが坂下より急ぎのぼりて彼方《かなた》に走るを見つ。ほどなく引返《ひつかえ》してわがひそみたる社《やしろ》の前に近づきし時は、一人ならず二人三人《ふたりみたり》連立《つれだ》ちて来《きた》りし感あり。
あたかもその立留《たちどま》りし折から、別なる跫音《あしおと》、また坂をのぼりてさきのものと落合《おちあ》ひたり。
「おいおい分らないか。」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」
とあとよりいひたるはわが家《いえ》につかひたる下男の声に似たるに、あはや出《い》でむとせしが、恐しきものの然《さ》はたばかりて、おびき出《いだ》すにやあらむと恐しさは一《ひと》しほ増しぬ。
「もう一度念のためだ、田圃《たんぼ》の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」
「それでは。」といひて上下《うえした》にばらばらと分れて行《ゆ》く。
再び寂《せき》としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出《さしい》だして、外《と》の方《かた》をうかがふに、何ごともあらざりければ、やや落着《おちつ》きたり。怪《あや》しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚《おろか》なる、と冷《ひやや》かに笑ひしに、思ひがけず、誰《たれ》ならむたまぎる声して、あわてふためき遁《に》ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
大沼《おおぬま》
「ゐないツて私《わたし》あどうしよう、爺《じい》や。」
「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様《まえさま》遊びに出します時、帯の結《むすび》めを丁《とん》とたたいてやらつしやれば好《よ》いに。」
「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」
「それはハヤ不念《ぶねん》なこんだ。帯の結《むすび》めさへ叩《たた》いときや、何がそれで姉様なり、母様《おふくろさま》なりの魂《たましい》が入るもんだで魔《エテ》めはどうすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、社《やしろ》の前をよこぎりたまへり。
走りいでしが、あまりおそかりき。
いかなればわれ姉上をまで怪《あやし》みたる。
悔《く》ゆれど及ばず、かなたなる境内《けいだい》の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
涙ぐみて彳《たたず》む時、ふと見る銀杏《いちよう》の木のくらき夜の空に、大《おおい》なる円《まる》き影して茂れる下に、女の後姿《うしろすがた》ありてわが眼《まなこ》を遮《さえぎ》りたり。
あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処《ここ》にあるを知られむは、拙《つたな》きわざなればと思ひてやみぬ。
とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優《やさ》しき姉上の姿に化《け》したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて言《ことば》はかけざりしと、打泣《うちな》きしが、かひもあらず。
あはれさまざまのものの怪《あや》しきは、すべてわが眼《まなこ》のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術《すべ》こそありけれ、かなたなる御手洗
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