なかに陀羅尼《だらに》を呪《じゆ》する聖《ひじり》の声々《こえごえ》さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄《すご》きに、身の置処《おきどころ》あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋《すが》りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟《えり》をば掻《か》きひらきたまひつつ、乳《ち》の下にわがつむり押入《おしい》れて、両袖《りようそで》を打《うち》かさねて深くわが背《せな》を蔽《おお》ひ給《たま》へり。御仏《みほとけ》のそのをさなごを抱《いだ》きたまへるもかくこそと嬉《うれ》しきに、おちゐて、心地《ここち》すがすがしく胸のうち安く平《たい》らになりぬ。やがてぞ呪《じゆ》もはてたる。雷《らい》の音も遠ざかる。わが背《せ》をしかと抱《いだ》きたまへる姉上の腕《かいな》もゆるみたれば、ソとその懐《ふところ》より顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外《おもて》をうかがふことだにならざる、静まるを待てば夜《よ》もすがら暴通《あれとお》しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜《つや》したまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九《ここの》ツ谺《こだま》といひたる谷、あけがたに杣《そま》のみいだしたるが、忽《たちま》ち淵《ふち》になりぬといふ。
 里の者、町の人|皆《みな》挙《こぞ》りて見にゆく。日を経《へ》てわれも姉上とともに来《きた》り見き。その日|一天《いつてん》うららかに空の色も水の色も青く澄《す》みて、軟風《なんぷう》おもむろに小波《ささなみ》わたる淵の上には、塵《ちり》一葉《ひとは》の浮べるあらで、白き鳥の翼《つばさ》広きがゆたかに藍碧《らんぺき》なる水面を横ぎりて舞へり。
 すさまじき暴風雨《あらし》なりしかな。この谷もと薬研《やげん》の如き形したりきとぞ。
 幾株《いくかぶ》となき松柏《まつかしわ》の根こそぎになりて谷間に吹倒《ふきたお》されしに山腹の土《つち》落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防をなして、凄《すさ》まじき水をば湛《たた》へつ。一《ひと》たびこのところ決潰《けつかい》せむか、城《じよう》の端《はな》の町は水底《みなそこ》の都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠《おこた》らず土を装《も》り石を伏《ふ》せて堅き堤防を築きしが、
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