抱《いだ》きたまふ、衣《きぬ》の袖《そで》左右より長くわが肩にかかりぬ。
 蘆間《あしま》の小舟《おぶね》の纜《ともづな》を解きて、老夫《おじ》はわれをかかへて乗せたり。一緒《いつしよ》ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに棹《さお》を立てぬ。船は出《い》でつ。わツと泣きて立上《たちあが》りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後《うしろ》にゐたまへりとおもふ人の大《おおい》なる環《わ》にまはりて前途《ゆくて》なる汀《みぎわ》にゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手《ゆんで》なる汀《みぎわ》に見えき。見る見る右手《めて》なる汀《みぎわ》にまはりて、やがて旧《もと》のうしろに立ちたまひつ。箕《み》の形したる大《おおい》なる沼は、汀《みぎわ》の蘆《あし》と、松の木と、建札《たてふだ》と、その傍《かたわら》なるうつくしき人ともろともに緩《ゆる》き環《わ》を描いて廻転し、はじめは徐《おもむ》ろにまはりしが、あとあと急になり、疾《はや》くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処《ところ》に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の前《さき》にうつくしき顔の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけたるが莞爾《につこ》とあでやかに笑《え》みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁《しげ》く丈《たけ》よりも高き汀《みぎわ》に、船はとんとつきあたりぬ。

     ふるさと

 をぢはわれを扶《たす》けて船より出《い》だしつ。またその背《せな》を向けたり。
「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの家《うち》ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀《いたべい》のあたりに来て、日のややくれかかる時、老夫《おじ》はわれを抱《いだ》き下《おろ》して、溝のふちに立たせ、ほくほく打《うち》ゑみつゝ、慇懃《いんぎん》に会釈《えしやく》したり。
「おとなにしさつしやりませ。はい。」
 といひずてに何地《いずち》ゆくらむ。別れはそ
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