見送ったが、顔に袖《そで》を当てて、長柄《ながえ》にはッと泣伏《なきふ》しました。それッきり。」
 高坂は声も曇って、
「私を負《おぶ》った男は、村を離れ、川を越して、遙《はるか》に鈴見《すずみ》の橋の袂《たもと》に差置《さしお》いて帰りましたが、この男は唖《おうし》と見えて、長い途《みち》に一言も物を言やしません。
 私は死んだ者が蘇生《よみがえ》ったようになって、家《うち》へ帰りましたが、丁度《ちょうど》全三月《まるみつき》経《た》ったです。
 花を枕頭《まくらもと》に差置《さしお》くと、その時も絶え入っていた母は、呼吸《いき》を返して、それから日増《ひまし》に快《よ》くなって、五年経ってから亡くなりました。魔隠《まかくし》に逢った小児《こども》が帰った喜びのために、一旦《いったん》本復《ほんぷく》をしたのだという人もありますが、私は、その娘の取ってくれた薬草の功徳《くどく》だと思うです。
 それにつけても、恩人は、と思う。娘は山賊に捕われた事を、小児心《こどもごころ》にも知っていたけれども、堅《かた》く言付《いいつ》けられて帰ったから、その頃三ヶ国|横行《おうこう》の大賊《たいぞく》が、つい私どもの隣《となり》の家《うち》へ入った時も、何《なんに》も言わないで黙っていました。
 けれども、それから足が附いて、二俣《ふたまた》の奥、戸室《とむろ》の麓《ふもと》、岩で城を築《つ》いた山寺に、兇賊《きょうぞく》籠《こも》ると知れて、まだ邏卒《らそつ》といった時分、捕方《とりかた》が多人数《たにんず》、隠家《かくれが》を取巻いた時、表門の真只中《まっただなか》へ、その親仁《おやじ》だと言います、六尺一つの丸裸体《まるはだか》、脚絆《きゃはん》を堅く、草鞋《わらじ》を引〆《ひきし》め、背中へ十文字に引背負《ひっしょ》った、四季の花染《はなぞめ》の熨斗目《のしめ》の紋着《もんつき》、振袖《ふりそで》が颯《さっ》と山颪《やまおろし》に縺《もつ》れる中に、女の黒髪《くろかみ》がはらはらと零《こぼ》れていた。
 手に一条《ひとすじ》大身《おおみ》の槍《やり》を提《ひっさ》げて、背負《しょ》った女房が死骸でなくば、死人の山を築《きず》くはず、無理に手活《ていけ》の花にした、申訳《もうしわけ》の葬《とむらい》に、医王山の美女ヶ原、花の中に埋《うず》めて帰る。汝《うぬ》ら見送っても命がないぞと、近寄ったのを五、六人、蹴散らして、ぱっと退《ひ》く中を、衝《つ》と抜けると、岩を飛び、岩を飛び、岩を飛んで、やがて槍を杖《つ》いて岩角《いわかど》に隠れて、それなりけりというので、さてはと、それからは私がその娘に出逢う門出《かどで》だった誕生日に、鈴見《すずみ》の橋の上まで来ては、こちらを拝んで帰り帰りしたですが、母が亡《なく》なりました翌年から、東京へ修行に参って、国へ帰ったのは漸《やっ》と昨年。始終望んでいましたこの山へ、後《あと》を尋ねて上《のぼ》る事が、物に取紛《とりまぎ》れている中《うち》に、申訳《もうしわけ》もない飛んだ身勝手な。
 またその薬を頂かねばならないようになったです。以前はそれがために類少《たぐいすくな》い女を一人、犠《いけにえ》にしたくらいですから、今度は自分がどんな辛苦《しんく》も決して厭《いと》わない。いかにもしてその花が欲しいですが。」
 言う中《うち》に胸が迫って、涙を湛《たた》えたためばかりでない。ふと、心付《こころづ》くと消えたように女の姿が見えないのは、草が深くなった所為《せい》であった。
 丈《たけ》より高い茅萱《ちがや》を潜《くぐ》って、肩で掻分《かきわ》け、頭《つむり》で避《よ》けつつ、見えない人に、物言い懸《か》ける術《すべ》もないので、高坂は御経《おきょう》を取って押戴《おしいただ》き、
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山川険谷《さんせんけんこく》  幽邃所生《ゆうすいしょしょう》  卉木薬艸《きぼくやくそう》  大小諸樹《だいしょうしょじゅ》
百穀苗稼《ひゃくこくびょうが》  甘庶葡萄《かんしょぶどう》  雨之所潤《うししょじゅん》  無不豊足《むふぶそく》
乾地普洽《かんちぶごう》  薬木並茂《やくぼくひょうも》  其雲所出《ごうんしょしゅつ》  一味之水《いちみしすい》
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 葎《むぐら》の中に日が射して、経巻《きょうかん》に、蒼く月かと思う草の影が映《うつ》ったが、見つつ進む内に、ちらちらと紅《くれない》来《きた》り、黄《き》来《きた》り、紫《むらさき》去《さ》り、白《しろ》過《す》ぎて、蝶《ちょう》の戯《たわむ》るる風情《ふぜい》して、偈《げ》に斑々《はんはん》と印《いん》したのは、はや咲交《さきまじ》る四季の花。
 忽然《こつねん》として天《てん》開《ひら》け、身は雲に包まれて、妙《たえ》なる薫《かおり》袖《そで》を蔽《おお》い、唯《と》見ると堆《うずたか》き雪の如く、真白《ましろ》き中に紅《くれない》ちらめき、瞶《みつ》むる瞳《ひとみ》に緑|映《えい》じて、颯《さっ》と分れて、一つ一つ、花片《はなびら》となり、葉となって、美女ヶ原の花は高坂の袂《たもと》に匂《にお》ひ、胸に咲いた。
 花売《はなうり》は籠《かご》を下《おろ》して、立休《たちやす》ろうていた。笠を脱いで、襟脚《えりあし》長く玉《たま》を伸《の》べて、瑩沢《つややか》なる黒髪を高く結んだのに、何時《いつ》の間にか一輪の小《ちいさ》な花を簪《かざ》していた、褄《つま》はずれ、袂《たもと》の端、大輪《たいりん》の菊の色白き中に佇《たたず》んで、高坂を待って、莞爾《にっこ》と笑《え》む、美しく気高き面《おも》ざし、威《い》ある瞳に屹《きっ》と射られて、今物語った人とも覚えず、はっと思うと学生は、既に身を忘れ、名を忘れて、唯《ただ》九《ここの》ツばかりの稚児《おさなご》になった思いであった。
「さあ、お話に紛《まぎ》れて遅く来ましたから、もうお月様が見えましょう。それまでにどうぞ手伝って花籠に摘《つ》んで下さいまし。」
 と男を頼るように言われたけれども、高坂はかえって唯々《いい》として、あたかも神に事《つか》うるが如く、左に菊を折り、右に牡丹《ぼたん》を折り、前に桔梗《ききょう》を摘み、後《うしろ》に朝顔を手繰《たぐ》って、再び、鈴見《すずみ》の橋、鳴子《なるこ》の渡《わたし》、畷《なわて》の夕立、黒婆《くろばば》の生豆腐《なまどうふ》、白姥《しろうば》の焼茄子《やきなすび》、牛車《うしぐるま》の天女、湯宿《ゆやど》の月、山路《やまじ》の利鎌《とがま》、賊の住家《すみか》、戸室口《とむろぐち》の別《わかれ》を繰返して語りつつ、やがて一巡した時、花籠は美しく満たされたのである。
 すると籠は、花ながら花の中に埋《う》もれて消えた。
 月影が射したから、伏拝《ふしおが》んで、心を籠《こ》めて、透《す》かし透かし見たけれども、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したけれども、見遣《みや》ったけれども、ものの薫《かおり》に形あって仄《ほのか》に幻《まぼろし》かと見ゆるばかり、雲も雪も紫も偏《ひとえ》に夜の色に紛《まぎ》るるのみ。
 殆《ほとん》ど絶望して倒れようとした時、思い懸《が》けず見ると、肩を並べて斉《ひと》しく手を合せてすらりと立った、その黒髪の花|唯《ただ》一輪、紅《くれない》なりけり月の光に。
 高坂がその足許《あしもと》に平伏《ひれふ》したのは言うまでもなかった。
 その時肩を落して、美女《たおやめ》が手を取ると、取られて膝をずらして縋着《すがりつ》いて、その帯のあたりに面《おもて》を上げたのを、月を浴びて※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けた、優しい顔で熟《じっ》と見て、少し頬《ほお》を傾けると、髪がそちらへはらはらとなるのを、密《そ》と押える手に、簪《かざし》を抜いて、戦《わなな》く医学生の襟《えり》に挟《はさ》んで、恍惚《うっとり》したが、瞳《ひとみ》が動き、
「ああ、お可懐《なつかし》い。思うお方《かた》の御病気はきっとそれで治《なお》ります。」
 あわれ、高坂が緊乎《しっか》と留《と》めた手は徒《いたずら》に茎を掴《つか》んで、袂《たもと》は空に、美女ヶ原は咲満《さきみ》ちたまま、ゆらゆらと前へ出たように覚えて、人の姿は遠くなった。
 立って追おうとすると、岩に牡丹《ぼたん》の咲重《さきかさな》って、白き象《ぞう》の大《おおい》なる頭《かしら》の如き頂《いただき》へ、雲に入《い》るよう衝《つ》と立った時、一度その鮮明《あざやか》な眉《まゆ》が見えたが、月に風なき野となんぬ。
 高坂は※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と坐した。
 かくて胸なる紅《くれない》の一輪を栞《しおり》に、傍《かたわら》の芍薬《しゃくやく》の花、方《ほう》一尺なるに経《きょう》を据《す》えて、合掌《がっしょう》して、薬王品《やくおうほん》を夜もすがら。



底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店
   1942(昭和17)年7月初版発行
初出:「二六新報」
   1903年(明治36年)5月16〜30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2005年12月1日修正
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