し》を渡ったには全く渡ったですよ。
山路《やまじ》は一日がかりと覚悟をして、今度来るには麓《ふもと》で一泊したですが、昨日《きのう》丁度《ちょうど》前《ぜん》の時と同一《おなじ》時刻、正午《ひる》頃です。岩も水も真白な日当《ひあたり》の中を、あの渡《わたし》を渡って見ると、二十年の昔に変らず、船着《ふなつき》の岩も、船出《ふなで》の松も、確《たしか》に覚えがありました。
しかし九歳《ここのつ》で越した折は、爺《じい》さんの船頭がいて船を扱いましたっけ。
昨日《きのう》は唯《ただ》綱を手繰《たぐ》って、一人で越したです。乗合《のりあい》も何《なんに》もない。
御存じの烈しい流《ながれ》で、棹《さお》の立つ瀬はないですから、綱は二条《ふたすじ》、染物《そめもの》をしんし[#「しんし」に傍点]張《ばり》にしたように隙間《すきま》なく手懸《てがかり》が出来ている。船は小さし、胴《どう》の間《ま》へ突立《つッた》って、釣下《つりさが》って、互違《たがいちがい》に手を掛けて、川幅三十|間《けん》ばかりを小半時《こはんとき》、幾度《いくたび》もはっと思っちゃ、危《あぶな》さに自然《ひとりで》に目を塞《ふさ》ぐ。その目を開ける時、もし、あの丈《たけ》の伸びた菜種《なたね》の花が断崕《がけ》の巌越《いわごし》に、ばらばら見えんでは、到底《とても》この世の事とは思われなかったろうと考えます。
十里四方には人らしい者もないように、船を纜《もや》った大木の松の幹に立札《たてふだ》して、渡船銭《わたしせん》三文とある。
話は前後《あとさき》になりました。
そこで小児《こども》は、鈴見《すずみ》の橋に彳《たたず》んで、前方《むこう》を見ると、正面の中空《なかぞら》へ、仏の掌《てのひら》を開いたように、五本の指の並んだ形、矗々《すくすく》立ったのが戸室《とむろ》の石山《いしやま》。靄《もや》か、霧か、後《うしろ》を包んで、年に二、三度|好《よ》く晴れた時でないと、蒼《あお》く顕《あらわ》れて見えないのが、即《すなわ》ちこの医王山です。
其処《そこ》にこの山があるくらいは、予《かね》て聞いて、小児心《こどもごころ》にも方角を知っていた。そして迷子《まいご》になったか、魔に捉《と》られたか、知れもしないのに、稚《ちいさ》な者は、暢気《のんき》じゃありませんか。
それが既に気が変になっていたからであろうも知れんが、お腹《なか》が空かぬだけに一向《いっこう》苦にならず。壊れた竹の欄干《らんかん》に掴《つかま》って、月の懸《かか》った雲の中の、あれが医王山と見ている内に、橋板《はしいた》をことこと踏んで、
向《むこう》の山に、猿が三|疋《びき》住みやる。中の小猿が、能《よ》う物《もの》饒舌《しゃべ》る。何と小児《こども》ども花折《はなお》りに行《ゆ》くまいか。今日の寒いに何の花折りに。牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、菊の花折りに。一本折っては笠に挿《さ》し、二本折っては、蓑《みの》に挿し、三枝《みえだ》四枝《よえだ》に日が暮れて……とふと唄いながら。……
何となく心に浮んだは、ああ、向うの山から、月影に見ても色の紅《くれない》な花を採って来て、それを母親の髪に挿したら、きっと病気が復《なお》るに違いないと言う事です。また母は、その花を簪《かんざし》にしても似合うくらい若かったですな。」
高坂は旧《もと》来た方《かた》を顧《かえり》みたが、草の外《ほか》には何もない、一歩《ひとあし》前《さき》へ花売《はなうり》の女、如何《いか》にも身に染《し》みて聞くように、俯向《うつむ》いて行《ゆ》くのであった。
「そして確《たしか》に、それが薬師《やくし》のお告《つげ》であると信じたですね。
さあ思い立っては矢《や》も楯《たて》も堪《たま》らない、渡り懸けた橋を取って返して、堤防《どて》伝いに川上へ。
後《あと》でまた渡《わたし》を越えなければならない路ですがね、橋から見ると山の位置《ありか》は月の入《い》る方へ傾いて、かえって此処《ここ》から言うと、対岸《むこうぎし》の行留《ゆきどま》りの雲の上らしく見えますから、小児心《こどもごころ》に取って返したのが丁《ちょう》ど幸《さいわい》と、橋から渡場《わたしば》まで行《ゆ》く間の、あの、岩淵《いわぶち》の岩は、人を隔てる医王山の一《いち》の砦《とりで》と言っても可《よ》い。戸室《とむろ》の石山《いしやま》の麓が直《すぐ》に流《ながれ》に迫る処《ところ》で、累《かさな》り合った岩石だから、路は其処《そこ》で切れるですものね。
岩淵をこちらに見て、大方《おおかた》跣足《はだし》でいたでしょう、すたすた五里も十里も辿《たど》った意《つもり》で、正午《ひる》頃に着いたのが、鳴子《なるこ》の渡《わたし》。」
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