妙《たえ》なる薫《かおり》袖《そで》を蔽《おお》い、唯《と》見ると堆《うずたか》き雪の如く、真白《ましろ》き中に紅《くれない》ちらめき、瞶《みつ》むる瞳《ひとみ》に緑|映《えい》じて、颯《さっ》と分れて、一つ一つ、花片《はなびら》となり、葉となって、美女ヶ原の花は高坂の袂《たもと》に匂《にお》ひ、胸に咲いた。
花売《はなうり》は籠《かご》を下《おろ》して、立休《たちやす》ろうていた。笠を脱いで、襟脚《えりあし》長く玉《たま》を伸《の》べて、瑩沢《つややか》なる黒髪を高く結んだのに、何時《いつ》の間にか一輪の小《ちいさ》な花を簪《かざ》していた、褄《つま》はずれ、袂《たもと》の端、大輪《たいりん》の菊の色白き中に佇《たたず》んで、高坂を待って、莞爾《にっこ》と笑《え》む、美しく気高き面《おも》ざし、威《い》ある瞳に屹《きっ》と射られて、今物語った人とも覚えず、はっと思うと学生は、既に身を忘れ、名を忘れて、唯《ただ》九《ここの》ツばかりの稚児《おさなご》になった思いであった。
「さあ、お話に紛《まぎ》れて遅く来ましたから、もうお月様が見えましょう。それまでにどうぞ手伝って花籠に摘《つ》んで下さいまし。」
と男を頼るように言われたけれども、高坂はかえって唯々《いい》として、あたかも神に事《つか》うるが如く、左に菊を折り、右に牡丹《ぼたん》を折り、前に桔梗《ききょう》を摘み、後《うしろ》に朝顔を手繰《たぐ》って、再び、鈴見《すずみ》の橋、鳴子《なるこ》の渡《わたし》、畷《なわて》の夕立、黒婆《くろばば》の生豆腐《なまどうふ》、白姥《しろうば》の焼茄子《やきなすび》、牛車《うしぐるま》の天女、湯宿《ゆやど》の月、山路《やまじ》の利鎌《とがま》、賊の住家《すみか》、戸室口《とむろぐち》の別《わかれ》を繰返して語りつつ、やがて一巡した時、花籠は美しく満たされたのである。
すると籠は、花ながら花の中に埋《う》もれて消えた。
月影が射したから、伏拝《ふしおが》んで、心を籠《こ》めて、透《す》かし透かし見たけれども、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したけれども、見遣《みや》ったけれども、ものの薫《かおり》に形あって仄《ほのか》に幻《まぼろし》かと見ゆるばかり、雲も雪も紫も偏《ひとえ》に夜の色に紛《まぎ》るるのみ。
殆《ほとん》ど絶望して倒れようとした時、思
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