した。位置は変って、川の反対《むこう》の方に見えて来た、なるほど渡《わたし》を渡らねばなりますまい。
 足を圧《おさ》えた片手を後《うしろ》へ、腰の両提《ふたつさげ》の中をちゃらちゃらさせて、爺様《じさま》頼んます、鎮守《ちんじゅ》の祭礼《まつり》を見に、頼まれた和郎《わろ》じゃ、と言うと、船を寄せた老人《としより》の腰は、親仁《おやじ》の両提《ふたつさげ》よりもふらふらして干柿《ほしがき》のように干《ひ》からびた小さな爺《じじい》。
 やがて綱に掴《つか》まって、縋《すが》ると疾《はや》い事!
 雀《すずめ》が鳴子《なるこ》を渡るよう、猿が梢《こずえ》を伝うよう、さらさら、さっと。」
 高坂は思わず足踏《あしぶみ》をした、草の茂《しげり》がむらむらと揺《ゆら》いで、花片《はなびら》がまたもや散り来る――二片三片《ふたひらみひら》、虚空《おおぞら》から。――
「左右へ傾く舷《ふなばた》へ、流《ながれ》が蒼く搦《から》み着いて、真白に颯《さっ》と翻《ひるがえ》ると、乗った親仁も馴れたもので、小児《こども》を担《かつ》いだまま仁王立《におうだち》。
 真蒼《まっさお》な水底《みなそこ》へ、黒く透《す》いて、底は知れず、目前《めさき》へ押被《おっかぶ》さった大巌《おおいわ》の肚《はら》へ、ぴたりと船が吸寄《すいよ》せられた。岸は可恐《おそろし》く水は深い。
 巌角《いわかど》に刻《きざ》を入れて、これを足懸《あしがか》りにして、こちらの堤防《どて》へ上《あが》るんですな。昨日《きのう》私が越した時は、先ず第一番の危難に逢うかと、膏汗《あぶらあせ》を流して漸々《ようよう》縋《すが》り着いて上《あが》ったですが、何、その時の親仁は……平気なものです。」
 高坂は莞爾《にっこり》して、
「爪尖《つまさき》を懸けると更に苦《く》なく、負《おぶ》さった私の方がかえって目を塞《ふさ》いだばかりでした。
 さて、些《ちっ》と歩行《ある》かっせえと、岸で下してくれました。それからは少しずつ次第に流《ながれ》に遠ざかって、田の畦《あぜ》三つばかり横に切れると、今度は赤土《あかつち》の一本道、両側にちらほら松の植わっている処《ところ》へ出ました。
 六月の中ばとはいっても、この辺には珍《めずら》しい酷《ひど》く暑い日だと思いましたが、川を渡り切った時分から、戸室山《とむろやま》が雲を吐いて、
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