さを》なんぞ……鈎《はり》も絲《いと》も忍《しの》ばしては出《で》なかつたが――それは女房《にようばう》が頻《しきり》に殺生《せつしやう》を留《と》める處《ところ》から、つい面倒《めんだう》さに、近所《きんじよ》の車屋《くるまや》、床屋《とこや》などに預《あづ》けて置《お》いて、そこから内證《ないしよう》で支度《したく》して、道具《だうぐ》を持《も》つて出掛《でか》ける事《こと》も、女房《にようばう》は薄々《うす/\》知《し》つて居《ゐ》たのである。
 處《ところ》が、一夜《いちや》あけて、晝《ひる》に成《な》つても歸《かへ》らない。不斷《ふだん》そんなしだらでない岩《いは》さんだけに、女房《にようばう》は人一倍《ひといちばい》心配《しんぱい》し出《だ》した。
 さあ、氣《き》に成《な》ると心配《しんぱい》は胸《むね》へ瀧《たき》の落《お》ちるやうで、――帶《おび》引緊《ひきし》めて夫《をつと》の……といふ急《せ》き心《ごころ》で、昨夜《ゆうべ》待《ま》ち明《あか》した寢《ね》みだれ髮《がみ》を、黄楊《つげ》の鬢櫛《びんぐし》で掻《か》き上《あ》げながら、その大勝《だいかつ》のうちはもとより、慌《あわた》だしく、方々《はう/″\》心當《こゝろあた》りを探《さが》し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》つた。が、何處《どこ》にも居《ゐ》ないし、誰《たれ》も知《し》らぬ。
 やがて日《ひ》の暮《くれ》るまで尋《たづ》ねあぐんで、――夜《よ》あかしの茶飯《ちやめし》あんかけの出《で》る時刻《じこく》――神樂坂下《かぐらざかした》、あの牛込見附《うしごめみつけ》で、顏馴染《かほなじみ》だつた茶飯屋《ちやめしや》に聞《き》くと、其處《そこ》で……覺束《おぼつか》ないながら一寸《ちよつと》心當《こゝろあた》りが付いたのである。
「岩《いは》さんは、……然《さ》うですね、――昨夜《ゆうべ》十二|時頃《じごろ》でもございましたらうか、一人《ひとり》で來《き》なすつて――とう/\降《ふ》り出《だ》しやがつた。こいつは大降《おほぶ》りに成《な》らなけりやいゝがツて、空《そら》を見《み》ながら、おかはりをなすつたけ。ポツリ/\降《ふ》つたばかり。すぐ降《ふ》りやんだものですから、可《い》い鹽梅《あんばい》だ、と然《さ》う云《い》つてね、また、お前《まへ》さん、すた/\駈出《かけだ》して行《ゆ》きなすつたよ。……へい、えゝ、お一人《ひとり》。――他《ほか》にや其《そ》の時《とき》お友達《ともだち》は誰《だれ》も居《ゐ》ずさ。――變《へん》に陰氣《いんき》で不氣味《ぶきみ》な晩《ばん》でございました。ちやうど來《き》なすつた時《とき》、目白《めじろ》の九《こゝの》つを聞《き》きましたが、いつもの八《や》つころほど寂寞《ひつそり》して、びゆう/\風《かぜ》ばかりさ、おかみさん。」
 せめても、此《これ》だけを心遣《こゝろや》りに、女房《にようばう》は、小兒《こども》たちに、まだ晩《ばん》の御飯《ごはん》にもしなかつたので、坂《さか》を駈《か》け上《あが》るやうにして、急《いそ》いで行願寺内《ぎやうぐわんじない》へ歸《かへ》ると、路地口《ろぢぐち》に、四《よつ》つになる女《をんな》の兒《こ》と、五《いつ》つの男《をとこ》の兒《こ》と、廂合《ひあはひ》の星《ほし》の影《かげ》に立《た》つて居《ゐ》た。
 顏《かほ》を見《み》るなり、女房《にようばう》が、
「父《とう》さんは歸《かへ》つたかい。」
 と笑顏《ゑがほ》して、いそ/\して、優《やさ》しく云《い》つた。――何《なに》が什《ど》うしても、「歸《かへ》つた。」と言《い》はせるやうにして聞《き》いたのである。
 不可《いけ》ない。……
「うゝん、歸《かへ》りやしない。」
「歸《かへ》らないわ。」
 と女《をんな》の兒《こ》が拗《す》ねでもしたやうに言《い》つた。
 男《をとこ》の兒《こ》が袖《そで》を引《ひ》いて、
「父《おとつ》さんは歸《かへ》らないけれどね、いつものね、鰻《うなぎ》が居《ゐ》るんだよ。」
「えゝ、え、」
「大《おほ》きな長《なが》い、お鰻《とゝ》よ。」
「こんなだぜ、おつかあ。」
「あれ、およし、魚尺《うをじやく》は取《と》るもんぢやない――何處《どこ》にさ……そして?」
 と云《い》ふ、胸《むね》の瀧《たき》は切《き》れ、唾《つ》が乾《かわ》いた。
「臺所《だいどころ》の手桶《てをけ》に居《ゐ》る。」
「誰《だれ》が持《も》つて來《き》たの、――魚屋《さかなや》さん?……え、坊《ばう》や。」
「うゝん、誰《だれ》だか知《し》らない。手桶《てをけ》の中《なか》に充滿《いつぱい》になつて、のたくつてるから、それだから、遁《に》げると不可《いけな》いから蓋《ふた》をしたんだ。」
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