に縋《すが》り着きぬ。蔦《つた》をその身に絡《から》めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳《かざ》し、水をきっと瞰下《みお》ろしたる、ときに寒冷|謂《い》うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈《はげ》しき泡《あわ》の吹き出ずるは老夫の沈める処《ところ》と覚しく、薄氷は亀裂《きれつ》しおれり。
 八田巡査はこれを見て、躊躇《ちゅうちょ》するもの一|秒時《セコンド》、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪《はなかんざし》の、徽章《きしょう》のごとくわが胸に懸《か》かれるが、ゆらぐばかりに動悸《どうき》烈《はげ》しき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、
「お退《ど》き」
「え、どうするの」
 とお香は下より巡査の顔を見上げたり。
「助けてやる」
「伯父さんを?」
「伯父でなくってだれが落ちた」
「でも、あなた」
 巡査は儼然《げんぜん》として、
「職務だ」
「だってあなた」
 巡査はひややかに、「職掌だ」
 お香はにわかに心着き、またさらに蒼《あお》くなりて、
「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」
「職掌だ」
「それだって」
「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺《おやじ》だが、職務だ! 断念《あきらめ》ろ」
 と突きやる手に喰《く》い附《つ》くばかり、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀《どべい》石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
 八田巡査は、声をはげまし、
「放さんか!」
 決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯《とっさ》に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田は警官として、社会より荷《にな》える負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとして、氷点の冷、水凍る夜半《よわ》に泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああはたして仁なりや、しかも一人の渠《かれ》が残忍|苛酷《かこく》にして、恕《じょ》すべき老車夫を懲罰し、憐《あわれ》むべき母と子を厳責したりし尽瘁《じんすい》を、讃歎《さんたん》するもの無きはいかん。
[#地付き](明治二十八年四月「文芸倶楽部」)



底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「文芸倶楽部」
   1895(明治28)年4月
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年9月10日公開
2005年12月4日修正
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