どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」
女はややしばらく黙したるが、
「い……い……え」ときれぎれに答えたり。
老夫は心地《ここち》よげに高く笑い、
「むむ、もっともだ。そうやすっぽくあきらめられるようでは、わが因業も価値《ねうち》がねえわい。これ、後生だからあきらめてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」
女はこらえかねて顔を振り上げ、
「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。
老夫は空嘯《そらうそぶ》き、
「なんだ、何がお気に入りません? 謂《い》うな、もったいない。なんだってまたおそらくおまえほどおれが気に入ったものはあるまい。第一|容色《きりょう》はよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、おまえのことといったら飯のくいようまで気に入るて。しかしそんなことで何、巡査をどうするの、こうするのという理窟《りくつ》はない。たといおまえが何かの折に、おれの生命《いのち》を助けてくれてさ、生命の親と思えばとても、けっして巡査にゃあ遣《や》らないのだ。おまえが憎い女ならおれもなに、邪魔をしやあしねえが、かわいいから、ああしたものさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」
女は少しきっとなり、
「それではあなた、あのおかたになんぞお悪いことでもございますの」
かく言い懸《か》けて振り返りぬ。巡査はこのとき囁《ささや》く声をも聞くべき距離に着々として歩《ほ》しおれり。
老夫は頭《こうべ》を打ち掉《ふ》りて、
「う、んや、吾《おり》ゃあいつも大好きさ。八円を大事にかけて、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷《かこく》だ、思い遣《や》りがなさすぎると、評判の悪《わろ》いのに頓着《とんじゃく》なく、すべ一本でも見免《みのが》さない、アノ邪慳《じゃけん》非道なところが、ばかにおれは気に入ってる。まず八円の価値《ねうち》はあるな。八円じゃ高くない、禄《ろく》盗人とはいわれない、まことにりっぱな八円様だ」
女はたまらず顧みて、小腰を屈《かが》め、片手をあげてソト巡査を拝みぬ。いかにお香はこの振舞《ふるまい》を伯父に認められじとは勉《つと》めけん。瞬間にまた頭《こうべ》を返して、八田がなんらの挙動をもてわれに答えしやを知らざりき。
五
「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもおまえを遣《や》ることはできないのだ。それもあいつが浮気《うわき》もので、ちょいと色に迷ったばかり、おいやならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、おれも承知をしたかもしれんが、どうしておれが探ってみると、義延《よしのぶ》(巡査の名)という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできない質《たち》で、やっぱりおまえと同一《おんなじ》ように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」と冷笑《あざわら》えり。
女《むすめ》は声をふるわして、
「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」と思い詰めたる体にて問いぬ。
伯父は事もなげに、
「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とてもだめだ、なんにもいうな、たといどうしても肯《き》きゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」
女はわっと泣きだしぬ。渠《かれ》は途中なることをも忘れたるなり。
伯父は少しも意に介せず、
「これ、一生のうちにただ一度いおうと思って、今までおまえにもだれにもほのめかしたこともないが、ついでだから謂《い》って聞かす。いいか、亡《な》くなったおまえのお母《っか》さんはな」
母という名を聞くやいなや女はにわかに聞き耳立てて、
「え、お母さんが」
「むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかり惚《ほ》れていたのだ」
「あら、まあ、伯父さん」
「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのお母さんを、おまえのお父《とっ》さんに奪《と》られたのだ。な、解《わか》ったか。もちろんおまえのお母さんは、おれがなんだということも知らず、弟《おとと》もやっぱり知らない。おれもまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実におりゃもう、お香、おまえはその思い遣《や》りがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れそのなかのいいのを見ていたおれは、ええ、これ、どんな気がしたとおまえは思う」
という声濁りて、痘痕《とうこん》の充《み》てる頬骨《ほおぼね》高き老顔の酒気を帯びたるに、一眼の盲《し》いたるがいとものすごきものとなりて、拉《とりひし》ぐばかり力を籠
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