は、八千の人の生命を、お主《ぬし》が奪取って行《ゆ》くも同然。百合を置いて行《ゆ》かん事には、ここは一足も通されんわ。百合は八千の人の生命じゃが。……さあ、どうじゃい。
学円 しばらく、(声を掛け、お百合を中に晃と立並ぶ。)その返答は、萩原からはしにくかろう。代って私《わし》が言う。――いかにも、お百合さんは村の生命《せいめい》じゃ。それなればこそ、華冑《かちゅう》の公子、三男ではあるが、伯爵の萩原が、ただ、一人の美しさのために、一代鐘を守るではないか――既に、この人を手籠《てご》めにして、牛の背に縄目の恥辱《ちじょく》を与えた諸君に、論は無益と思うけれども、衆人|環《めぐ》り視《み》る中において、淑女の衣《ころも》を奪うて、月夜を引廻すに到っては、主、親を殺した五逆罪の極悪人を罪するにも、洋の東西にいまだかつてためしを聞かんぞ!
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そりゃあるいは雨も降ろう、黒雲《くろくも》も湧《わ》き起ろうが、それは、惨憺《さんたん》たる黒牛の背の犠牲《ぎせい》を見るに忍びないで、天道が泣かるるのじゃ。月が面《おもて》を蔽《おお》うのじゃ。天を泣かせ、光を隠して、それで諸君は活《い》きらるるか。稲は活きても人は餓《う》える、水は湧いても人は渇《かつ》える。……無法な事を仕出《しいだ》して、諸君が萩原夫婦を追うて、鐘を撞《つ》く約束を怠って、万一、地《つち》が泥海になったらどうする! 六ヶ村八千と言わるるか、その多くの生命は、諸君が自ら失うのじゃ。同じ迷信と言うなら言え。夫婦|仲睦《なかむつま》じく、一生|埋木《うもれぎ》となるまでも、鐘楼《しょうろう》を守るにおいては、自分も心を傷《きずつ》けず、何等世間に害がない。
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管八 黙れ、煩《うるさ》い。汝《うぬ》が勝手な事を言うな。
初雄 一体君は何ものですか。
学円 私《わし》か、私は萩原の親友じゃ。
宅膳 藪《やぶ》から坊主が何を吐《ぬか》す。
学円 いかにも坊主じゃ、本願寺派の坊主で、そして、文学士、京都大学の教授じゃ。山沢学円と云うものです。名告《なの》るのも恥入りますが、この国は真宗門徒信仰の淵源地《えんげんち》じゃ。諸君のなかには同じ宗門のよしみで、同情を下さる方もあろうかと思うて云います。(教員に)君は学校の先生か、同一《おなじ》教育家じゃ。他人でない、扱うてくれたまえ。(神官《かんぬし》に)貴方《あなた》も教えの道は御親類。(村長に)村長さんの声名にもお縋り申す。……(力士に)な、天下の力士は侠客《きょうかく》じゃ、男立《おとこだて》と見受けました。……何分願います、雨乞の犠牲はお許しを頼む。
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これがために一同しばらくためらう。……代議士|穴隈《あなぐま》鉱蔵、葉巻をくゆらしながら、悠々と出づ。
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鉱蔵 其奴等《そいつら》騙賊《かたり》じゃ。また、騙賊でのうても、華族が何だ、学者が何だ、糧《かて》をどうする!……命をどうする?……万事俺が引受けた。遣《や》れ、汝等《きさまら》、裸にしようが、骨を抜こうが、女郎《めろう》一人と、八千の民、誰《たれ》か鼎《かなえ》の軽重《けいちょう》を論ぜんやじゃ。雨乞を断行せい。
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力士|真先《まっさき》に、一同ばらりと立懸《たちかか》る。
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学円 私《わし》を縛《しば》れ、(と上衣《うわぎ》を脱ぎ棄て)かほど云うても肯入《ききい》れないなら止《や》むを得ん、私《わし》を縛れ、牛にのせい。
晃 (からりと鎌を棄て)いや、身代りなら俺を縛れ。さあ、八裂《やつざき》にしろ、俺は辞せん。――牛に乗せて夜叉ヶ池に連れて行《ゆ》け。犠牲《にえ》によって、降らせる雨なら、俺が竜神に談判してやる。
百合 あれ、晃さん、お客様、私が行きます、私を遣って下さいまし。
晃 ならん、生命《いのち》に掛けても女房は売らん、竜神が何だ、八千人がどうしたと! 神にも仏にも恋は売らん。お前が得心で、納得して、好んですると云っても留めるんだ。
鉱蔵 (ふわふわと軽く詰め寄り、コツコツと杖を叩いて)血迷うな! たわけも可《い》い加減にしろ、女も女だ。湯屋へはどうして入る?……うむ、馬鹿が!(と高笑いして)君たち、おい、いやしくも国のためには、妻子を刺殺《さしころ》して、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽《つく》すのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。国のために尽すのに、一晩|媽々《かかあ》を牛にのせるのが、さほどまで情《なさけ
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