んだ。山沢、野菜は食わしたいぜ、そりゃ、甘《うま》いぞ。
学円 奥方、お立ちなさるな。トそこでじゃな、萩原、私《わし》は志した通り、これから夜を掛けて夜叉ヶ池を見に行《ゆ》く気じゃ。種々《いろいろ》不思議な話を聞いたら、なお一層見たくなった。御飯はお手料理で御馳走《ごちそう》になろうが、お杯には及ばん、第一、知ってる通り、一滴も飲めやせん。
晃 成程、そうか、夜叉ヶ池を見に来たんだ。……明日《あした》にしては、と云うんだけれども、道は一里余り、が、上りが嶮《けわ》しい。この暑さでは夜が可《い》い。しかし、四五日は帰さんから、明日の晩にしてくれないかい。
学円 いや、学校がある。これでも学生の方ではないから勝手に休めん。第一、遊び過ぎて、もう切詰めじゃ。
晃 それは困った、学校は?……先刻《さっき》、落着く先は京都だと云ったようだな。
学円 むむ、去年から。……みやづかえの情《なさけ》なさじゃ。何しろ、急ぐ。
晃 分った、では案内かたがた一所に行く。
学円 君も。
晃 ……直ぐに出掛けよう。
学円 それだと、奥方に済まんぞ。
晃 何を詰《つま》らない。
百合 いいえ……(と云いしがしおしおと)貴方《あなた》、直ぐにとおっしゃって、……お支度は、……
晃 土橋の煮染屋《にしめや》で竹の皮づつみと遣《や》らかす、その方が早手廻《はやてまわし》だ。鰊《にしん》の煮びたし、焼どうふ、可《よ》かろう、山沢。
学円 結構じゃ。
晃 事が決れば早いが可《い》い。源佐衛門は草履で可《よ》し、最明時《さいみょうじ》どのは、お草鞋《わらじ》、お草鞋。
学円 やあ、おもしろい。奥さん、いずれ帰途《かえり》には寄せて頂く。私は味噌汁が大好きです。小菜《こな》を入れて食べさして発《たた》せて下さい。時に、帰途はいつになろう。……
晃 さあ、夜《よ》が短い。明方になろうも知れん。
学円 明けがた……は可《い》いが、(と草鞋を穿《は》きながら)待て待て、一所に気軽に飛出して、今夜、丑満つの鐘はどうするのじゃ。
晃 百合が心得ておる。先代弥太兵衛と違う。仙人ではない、生身の人間。病気もする、百合が時々代るんだよ。
学円 では、池のあたりで聞きましょう。――奥方しっかり願います。
百合 はい、内をお忘れなさいませんように、私は一生懸命に。(と涙声にて云う。)
晃 ……おい、あの、弥太兵衛が譲りの、お家の重宝《ちょうほう》と云う瓢箪《ひょうたん》を出したり、酒を買う。――それから鎌を貸しな、滅多に人の通わぬ処、路はあっても熊笹ぐらいは切らざあなるまい。……早くおし。
百合 はい、はい。
学円 やあ、どぎどぎと鋭いな。(と鎌を見る。)
晃 月影に……(空へかざす)なお光るんだ。これでも鎌を研《と》ぐことを覚えたぜ。――こっちだ、こっちだ。(と先へ立つ。)
百合 お気をつけ遊ばせよ。(とうるみ声にて、送り出づる時、可愛《かわゆ》き人形袖にあり。)
晃 何だい、こんなもの。(見返る。)
百合 太郎がちょっとお見送り。(と袖でしめつつ)小父《おじ》ちゃんもお早くお帰りなさいまし、坊やが寂しゅうございます。(と云いながら、学円の顔をみまもり、小家《こや》の内を指し、うつむいてほろりとする。)
学円 (庇《かば》う状《さま》に手を挙げて、また涙ぐみ)御道理《ごもっとも》じゃ、が、大丈夫、夢にも、そんな事が、貴女、(と云って晃に向きかえ)私《わし》に逢うて、里心が出て、君がこれなり帰るまいか、という御心配じゃ。
百合 (きまりわるげに、つと背向《せむき》になる。)
晃 ああ、それで先刻《さっき》から……馬鹿、嬰児《ねんねえ》だな。
学円 何かい、ちょっと出懸《でがけ》に、キスなどせんでも可《い》いかい。
晃 旦那方じゃあるまいし、鐘撞《かねつき》弥太兵衛でがんすての。
[#ここから2字下げ]
と両人連立ち行く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
百合 (熟《じっ》としばし)まさかと思うけれど、ねえ、坊や、大丈夫お帰んなさるわねえ。おおおお目ン目を瞑《ねむ》って、頷《うなず》いて、まあ、可愛い。(と頬摺《ほおず》りし)坊やは、お乳《つぱ》をおあがりよ。母《かあ》さんは一人でお夕飯も欲しくない。早く片附けてお留守をしましょう。一人だと見て取ると、村の人が煩《うるさ》いから、月は可《よ》し、灯を消して戸をしめて。――
[#ここから2字下げ]
と框《かまち》にずッと雨戸を閉める。閉め果てると、戸の鍵《かぎ》がガチリと下りる。やがて、納戸の燈《ともしび》、はっと消ゆ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]出る化ものの数々は、一ツ目、見越《みこし》、河太郎、獺《かわうそ》に、海坊主、天守にお
前へ 次へ
全19ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング