こんな山家は、お化《ばけ》より、都の人が可恐《こお》うござんす、……さ、貴客どうぞ。
学円 これは、押出されるは酷《ひど》い。(不承々々に立つ。)
百合 (続いて出で、押遣《おしや》るばかりに)どうぞ、お立ち下さいまし。
学円 婦人ばかりじゃ、ともこうも言われぬか。鉢の木ではないのじゃが、蚊に焚《た》く柴もあるものを、……常世《つねよ》の宿なら、こう情《なさけ》なくは扱うまい。……雪の降らぬがせめてもじゃ。
百合 真夏土用の百日|旱《ひでり》に、たとい雪が降ろうとも、……(と立ちながら、納戸の方を熟《じっ》と視《み》て、学円に瞳を返す。)御機嫌よう。
学円 失礼します。
晃 (衝《つ》と蚊遣《かやり》の中に姿を顕《あらわ》し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)
学円 おい、萩原、萩原か。
百合 あれ、貴方《あなた》。(と走り寄って、出足を留めるように、膝を突き手に晃の胸を圧《おさ》える。)
晃 帰りやしない、大丈夫、大丈夫。(と低声《こごえ》に云って)何とも言いようがない、山沢、まあ――まあ、こちらへ。
学円 私《わし》も何とも言いようが無い。十に九ツ君だろうと、今ね、顔を見た時、また先刻《さっき》からの様子でもそう思うた、けれども、余り思掛けなし――(引返して框《かまち》に来《きた》り)第一、その頭はどうしたい。
晃 頭もどうかしていると思って、まあ、許して上ってくれ。
学円 埃《ほこり》ばかりじゃ、失敬するぞ、(と足を拭《ふ》いたなりで座に入る)いや、その頭も頭じゃが、白髪はどうじゃ、白髪はよ?……
晃 これか、谷底に棲《す》めばといって、大蛇《うわばみ》に呑まれた次第《わけ》ではない、こいつは仮髪《かつら》だ。(脱いで棄てる。)
学円 ははあ……(とお百合を密《そっ》と見て)勿論じゃな、その何も……
晃 こりゃ、百合と云う。
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お百合、座に直った晃の膝に、そのまま俯伏《うっぷ》して縋《すが》っている。
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学円 お百合さんか。細君も……何、奥方も……
晃 泣く奴があるか、涙を拭いて、整然《ちゃん》として、御挨拶《ごあいさつ》しな。
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と言ううちに、極《きま》り悪そうに、お百合は衝《つ》と納戸へかくれる。
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晃 君に背中を敲《たた》かれて、僕の夢が覚めた処で、東京に帰るかって憂慮《きづか》いなんです。
学円 (お百合の優しさに、涙もろく、ほろりとしながら)いや、私《わし》の顔を見たぐらいで、萩原――この夢は覚めんじゃろう。……何、いい夢なら、あえて覚めるには及ばんのじゃ……しかし萩原、夢の裡《うち》にも忘れまいが、東京の君の内では親御はじめ、
晃 むむ。
学円 君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分らんが、皆まず御無事じゃ。
晃 ああ、そうか。難有《ありがた》い。
学円 私《わし》に礼には及ばない。
晃 実に済まん!
学円 さてこれはどうしたわけじゃ。
晃 夢だと思って聞いてくれ。
学円 勿論、夢だと思うておる。……
晃 委《くわ》しい事は、夜すがらにも話すとして、知ってる通り……僕は、それ諸国の物語を聞こうと思って、北国筋を歩行《ある》いたんだ。ところが、自身……僕、そのものが一条《ひとくだり》の物語になった訳だ。――魔法つかいは山を取って海に移す、人間を樹にもする、石にもする、石を取って木《こ》の葉にもする。木の葉を蛙《かえる》にもするという、……君もここへ来たばかりで、もの語《かたり》の中の人になったろう……僕はもう一層、その上を、物語、そのものになったんだ。
学円 薄気味の悪い事を云うな。では、君の細君は、……(云いつつ憚《はばか》る。)
晃 (納戸を振向く)衣服《きもの》でも着換えるか、髪など撫《なで》つけているだろう。……襖《ふすま》一重だから、背戸へ出た。……
学円 (伸上り納戸越に透かして見て)おい、水があるか、蘆《あし》の葉の前に、櫛《くし》にも月の光が射《さ》して、仮髪《かつら》をはずした髪の艶《つや》、雪国と聞くせいか、まだ消残って白いように、襟脚、脊筋も透通る。……凄《すご》いまで美しいが、……何か、細君は魔法つかいか。
晃 可哀想《かわいそう》な事を言え、まさか。
学円 ふん。
晃 この土地、この里――この琴弾谷が、一個《ひとつ》の魔法つかいだと云うんだよ。――
山沢、君は、この山奥の、夜叉ヶ池というのを聞いたか。
学円 聞いた。しかもその池を見ようと思って、今庄《いまじょう》駅から五里ばかり、わざわざここまで入込《いりこ》んだのじゃ。
晃 僕も一昨年《おととし》、その池を見ようと思って、ただ一人、この谷へ入った
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