ために、こういう次第になったんだ。――ここに鐘がある――
学円 ある! 何か、明六つ、暮六つ……丑満《うしみつ》、と一昼夜に三度鳴らす。その他は一切音をさせない定《さだめ》じゃと聞いたが。
晃 そうだよ。定として、他は一切音をさせてはならない、と一所にな、一日一夜に三度ずつは必ず鳴らさねばならないんだ。
学円 それは?
晃 ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越《えつ》の大徳泰澄《だいとくたいちょう》が行力《ぎょうりき》で、竜神をその夜叉ヶ池に封込《ふうじこ》んだ。竜神の言うには、人の溺《おぼ》れ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。そのかわりに鐘を鋳て、麓《ふもと》に掛けて、昼夜に三度ずつ撞鳴《つきな》らして、我を驚かし、その約束を思出させよ。……我が性は自由を想う。自在を欲する。気ままを望む。ともすれば、誓《ちかい》を忘れて、狭き池の水をして北陸七道に漲《みなぎ》らそうとする。我が自由のためには、世の人畜の生命など、ものの数ともするものでない。が、約束は違《たが》えぬ、誓は破らん――但しその約束、その誓を忘れさせまい。思出させようとするために、鐘を撞《つ》く事を怠るな。――山沢、そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、たちどころに、大雨《たいう》、大雷《だいらい》、大風とともに、夜叉ヶ池から津浪が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳《は》すると……こう、この土地で言伝える。……そのために、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。……
学円 (乗出でて)面白い。
晃 いや、面白いでは済まない、大切な事です。
学円 いかにも大切な事じゃ。
晃 ところで、その鐘を撞く、鐘撞き男を誰だと思う。
学円 君か。
晃 僕だよ。すなわち萩原晃がその鐘撞夫《かねつき》なんだよ。
学円 はてな。
晃 ここに小屋がある……
学円 むむ。
晃 鐘撞が住む小屋で、一昨年《おととし》の夏、私が来て、代るまでは、弥太兵衛《やたべえ》と云う七十九になる爺様《じいさん》が一人居て、これは五十年|以来《このかた》、いかな一日も欠かす事なく、一昼夜に三度ずつこの鐘を打っていた。
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山沢、花は人の目を誘う、水は人の心を引く。君も夜叉ヶ池を見に来たと云う。私がやっぱり、池を見ようと、この里へ来た時、暮六つの鐘が鳴っ
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