家《ひとつや》で、店さきには遠慮をする筈《はず》、別の絵を上被《うわっぱ》りに伏せ込んで、窓の柱に掛けてあったのが、暴風雨《あらし》で帯を引裂いたようにめくれたんですね。ああ、吹込むしぶきに、肩も踵《かかと》も、わなわな震えている。……
雨はかぶりましたし、裸のご新姐の身の上を思って……」
(――語ってここを言う時、その胸を撫でて、目を押える、ことをする。)
「まぶたを溢《あふ》れて、鼻柱をつたう大粒の涙が、唇へ甘く濡れました。甘い涙。――いささか気障《きざ》ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫《おもいせま》った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡《あん》ぱんの涙、金鍔《きんつば》の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟《たた》り目でしょう。左の目が真紅《まっか》になって、渋くって、辛くって困りました時、お雪さんが、乳を絞って、つぎ込んでくれたのです。
(――かなしいなあ――)
走りはしません、ぽたぽたぐらい。一人児《ひとりっこ》だから、時々飲んでいたんですが、食が少いから涸《か》れがちなんです。私を仰向《あおむ》けにして、横合から胸をはだけて、……まだ袷《あわせ》、お雪さんの肌には微《かす》かに紅《くれない》の気《け》のちらついた、春の末でした。目をはずすまいとするから、弱腰を捻《ひね》って、髷《まげ》も鬢《びん》もひいやりと額にかかり……白い半身が逆になって見えましょう。……今時……今時……そんな古風な、療治を、禁厭《まじない》を、するものがあるか、とおっしゃいますか。ええ、おっしゃい。そんな事は、まだその頃ありました、精盛薬館、一二《おいちに》を、掛売で談ずるだけの、余裕があっていう事です。
このありさまは、ちょっと物議になりました。主人《あるじ》の留守で。二階から覗いた投機家が、容易ならぬ沙汰をしたんですが、若い燕だか、小僧の蜂だか、そんな詮議《せんぎ》は、飯を食ったあとにしようと、徹底した空腹です。
それ以来、涙が甘い。いまそのこぼれるにつけても、さかさに釣られた孤家《ひとつや》の女の乳首が目に入って来そうで、従って、ご新姐の身の上に、いつか、おなじ事でもありそうでならなかった。――予感というものはあるものでしょうか。
その日の中《うち》に、果しておなじ
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