を、姉さんは柔順《おとなし》いから、
「お出花が冷くなって、」
 と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓《ひじかけまど》から、暗い雨落へ、ざぶりと覆《かえ》すと、斜めに見返って、
「大《おおき》な湯覆《ゆこぼ》しだな、お前ン許《とこ》のは。」
「あんな事ばかり云って、」
 と、主税を見て莞爾《にっこり》して、白歯を染めても似合う年紀《とし》、少しも浮いた様子は見えぬ。
 それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注《つ》いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
 酒井は軽《かる》く襟を扱《しご》いて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
 と横目で見て、嬉しそうに笑《えみ》を含む。
「いずれ不漁《しけ》さ。」
 と打棄《うっちゃ》るように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が更《あらた》まった。
「ええ。」
「先刻《さっき》の三世相を見せろ。」
 一仔細《ひとしさい》なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞《いな》むべき数《すう》ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下《もと》に、先生の手に、もじもじと奉る。
 引取《ひっと》って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆《きも》を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色《おももち》で、覗込《のぞきこ》んで、
「心当りでも出来たんですか。」
 不答《こたえず》。煙草の喫《すい》さしを灰の中へ邪険に突込《つっこ》み、
「何は、どうした。」
 と唐突《だしぬけ》に聞かれたので、小芳は恍惚《うっとり》したように、酒井の顔を視《なが》めると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨《うま》い、景気の可《い》い、」
 いいいい本を引返《ひっかえ》して、
「扱帯《しごき》で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
 と凝《じっ》と見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
 と云って、喫いかけた煙管《きせる》を忘れる。
 主税は天窓《あたま》から悚然《ぞっ》とした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手《のて》になって容子を知らんが、相変らず繁昌《はんじょう》か。」

       三十九

 小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪《こら》えて、酒井を瞻《みまも》った顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍《ひき》ましたそうです。」
 と言わせも果てずに、
「(そうです。)は可怪《おかし》い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然《はっきり》謂《い》え、落籍《ひい》たのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛《まつげ》が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
 酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留《や》めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹《きょうだい》のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
 姉さんとか、小芳さんとか云って、先方《さき》でも落籍《ひき》祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
 蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、※[#「にんべん」、第4水準2−1−21]《にんべん》の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記《つ》いているだろう。その婦《おんな》の行先が知れない奴があるものか。
 知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己《おれ》のような素一歩《すいちぶ》と腐合おうと云う料簡方《りょうけんかた》だから、はじめから悧怜《りこう》でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可《いか》んな! 薄情は。薄情な奴は俺《おい》ら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
 と口惜《くや》しく屹《きっ》となる処を、酒井の剣幕が烈《はげし》いので、悄《しお》れて声が霑《うる》んだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦《おんな》の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎《あなた》。だって、先方《さき》でも、つい音信《たより》をしないもんですから、」
「先方《さき》が音信《たより》をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通《ゆきかよい》はしないでも、居処が分らんじゃ、近火《きんか》はどうする! 火事見舞に町内の頭《かしら》も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
 姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は堪《たま》りかねて、
「先生、」
 と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
 酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
 堀の内へでも参詣《まい》る時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
 真蒼《まっさお》になって、
「先生、」
「早瀬!」
 と一声|屹《きっ》となって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を捲《ま》いて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
 眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、素袷《すあわせ》のすッとこ被《かぶり》よ。婦《おんな》は編笠を着て三味線《さみせん》を持った、その門附《かどつけ》の絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱《うろ》ついて、三世相の盗人覗《ぬすっとのぞ》きをするにゃ当るまい。
 その間抜けさ加減だから、露店《ほしみせ》の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢《いなかもの》め!」

       四十

 主税はようよう、それも唾《つば》が乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、午《うま》だとか。」
 と串戯《じょうだん》のような警抜な詰問が出たので、いささか言《ことば》が引立《ひった》って、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
 小芳はそっと酒井を見た。この間《なか》でも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を検《しら》べたのかい。」
 果せる哉《かな》、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達《きんだち》を御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、瞼《まぶた》が颯《さっ》と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然《れっき》とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章《あわて》なさんな。
 僭上《せんじょう》だよ、無礼だよ、罰当り!
 お前が、男世帯をして、いや、菜が不味《まず》いとか、女中《おんな》が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可《い》いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活《うど》を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体《もったい》ない、一度先生が目を通して、綺麗に装《も》ってあるのを、重箱のまま、売婦《ばいた》とせせり箸《ばし》なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
 よく、その慈姑《くわい》が咽喉《のど》に詰って、頓死《とんし》をしなかったよ。
 無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
 と大喝した。
 主税は思わず居直って、
「邪魔を……私《わ》、私《わたくし》が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己《おれ》に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方《さき》の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
 第一、汝《きさま》のような間違った料簡《りょうけん》で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
 何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点《のみこ》んでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕《あばた》が、」
 と色をかえて戦《わなな》いた。主税はしかも点々《たらたら》と汗を流して、
「他《ほか》の事とは違います、聞棄てになりません。私《わたくし》は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許《とこ》へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態《なり》をしやあがって、薄髯《うすひげ》の生えた面《つら》を、どこまで曝《さら》して歩行《ある》いているんだ。」
 と火鉢をぐいぐいと揺《ゆすぶ》って。

       四十一

「あっちへ蹌々《ひょろひょろ》、こっちへ踉々《よろよろ》、狐の憑《つ》いたように、俺の近所を、葛西《かさい》街道にして、肥料桶《こえたご》の臭《におい》をさせるのはどこの奴だ。
 何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体《からだ》に探捜《さぐり》を入れるのが、不都合だとか、不意気《ぶいき》だとか言うそうだが、」
 噫《ああ》、礼之進が皆|饒舌《しゃべ》った……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
 学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶《と》るのだ。念を入れんでどうするものか。検《しら》べるのは当前《あたりまえ》だ。芸者を媽々《かかあ》にするんじゃない。
 また己《おれ》の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体《はだか》で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
 何が可恐《おそろし》い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等《かれら》の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
 よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪《しゃく》に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体《からだ》を秘《かく》した日にゃ、按摩《あんま》の勢揃ほど道学者輩が杖《つえ》を突張って押寄せて、垣覗《かきのぞ》きを遣ったって、黒子《ほくろ》一点《ひとつ》も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
 とまた屹《きっ》と見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧《おさ》えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負|猪《じし》でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
 馬鹿野郎
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