》ではありません。め[#「め」に傍点]組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
 と帽子を上へ抜上げると、元気に額の皺《しわ》を伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒《せきれい》の尾のごとく、左の人指《ひとさし》をひょいと刎《は》ね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐《したなめず》る。
 主税はむしゃりと海苔を頬張り、
「め[#「め」に傍点]組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、種々《いろん》な事を言《いっ》て、お握飯《むすび》を拵《こしら》えろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と莞爾々々《にこにこ》、
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、め[#「め」に傍点]組は商売がありますよ。疾《はや》くお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
 と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえん[#「がえん」に傍点]に知己《ちかづき》があるようで、真《まこと》に近所へ極《きまり》が悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入《ではい》りをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説《うわさ》によると、あの、魚屋の出入《でいり》をする家《うち》は、どこでも工面が悪いって事《こっ》たから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下《あなた》から……と先ずざっとこうよ。」
 め[#「め」に傍点]組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火《ぼや》ぐらいには吃驚《びっくり》したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め[#「め」に傍点]組怒っちゃ不可《いけな》い。」
「分った……」
 と唐突《だしぬけ》に膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴《あいつ》、兇状持だ。」
「ええ―」
 何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと極《きま》る。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
 め[#「め」に傍点]組は、どこか当なしに睨《にら》むように目を据えて、
「それを、私《わっし》ア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」

       九

「ウイ、だから私《わっし》が出入っちゃ、どんな事で暴露《ばれ》ようも知れねえという肚《はら》だ。こっちあ台所《でえどこ》までだから、ちっとも気がつかなかったが、先方《さき》じゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日《おととい》頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
 状《ざま》あ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、笑《わら》かしゃあがら。」
 と大きに気勢《きお》う。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの母様《おっかさん》がかい。」
 とお蔦も真顔で訝《いぶか》った。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、貴郎《あなた》、真面目《まじめ》で聞くことはないんだわ。め[#「め」に傍点]組の云う兇状持なら、あの令夫人《おくさん》がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅《はぎ》を拵《こしら》えたって、自分の女房《かみさん》を敵《かたき》のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。め[#「め」に傍点]の字、何か甘いものが好《すき》なんだろう。」
「いずれ、何か隠喰《かくしぐい》さ、盗人上戸《どろぼうじょうご》なら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅|俳優《やくしゃ》かい。」
「いんや、馬丁《べっとう》……貞造って……馬丁でね。私《わっし》が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗《な》めたが、病着《やみつき》で、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》の出るほど食ったんだ。」
 主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、め[#「め」に傍点]組、ほんとうかい。」
 と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、め[#「め」に傍
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