つ》かず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕《あばた》めい、差配《おおや》はどこだと聞きゃあがる。差配様《おおやさん》か、差配様は此家《ここ》の主人《あるじ》が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色《がんしょく》をしやがって、家賃は幾干《いくら》か知らんが、前《ぜん》にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前《め》さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人《いろ》と世帯を持った家《うち》だ、汝達《てめえたち》の手に渡すもんか。め[#「め」に傍点]組の惣助と云う魚河岸の大問屋《おおどいや》が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰《けえ》れ、と喚《わめ》くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
「悪戯《いたずら》をするじゃないか。」
「だって、お前《め》さん、言種《いいぐさ》が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時《ころ》で御覧《ごろう》じろ、えて吉、存命は覚束《おぼつか》ねえ。」
と図に乗って饒舌《しゃべ》るのを、おかしそうに聞惚《ききと》れて、夜の潮《しお》の、充ち満ちた構内に澪標《みおつくし》のごとく千鳥脚を押据えて憚《はば》からぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等《かれら》の傍《そば》で、駅員が一名、密《そっ》と寄って、中にもめ[#「め」に傍点]組の横腹の辺《あたり》で唐突《だしぬけ》に、がんからん、がんからん、がんからん。
「ひゃあ、」と据眼《すえまなこ》に呼吸《いき》を引いて、たじたじと退《すさ》ると、駅員は冷々然として衝《つ》と去って、入口へ向いて、がらんがらん。
主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それは豪《えら》い。」
惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、串戯《じょうだん》じゃねえ、二合半《こなから》が処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
荷物を引立《ひった》てて来て、二人で改札口を出た。その半纏着《はんてんぎ》と、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客《のりて》はただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
め[#「め」に傍点]組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ覗《のぞ》き越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
「大束《おおたば》を言うな、駈落の身分じゃないか。幾干《いくら》だっけ。」
と横へ反身《そりみ》に衣兜《かくし》を探ると、め[#「め」に傍点]組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、頭《かぶり》を掉《ふ》って、
「不残《のこらず》叩き売った道具のお銭《あし》が、ずッしりあるんだ。お前《め》さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――め[#「め」に傍点]組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁《べっとう》貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。己《おれ》も捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
と後退《あとじさ》って、向うざまに顱巻《はちまき》を占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
傍《かたわら》へ来た駅員に、突《つん》のめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜《あだ》な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸《がらすど》をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背《うしろ》を向いた。
汽車出でぬ。
貴婦人
一
その翌日、神戸行きの急行列車が、函根《はこね》の隧道《トンネル》を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子《テイブル》は別であるが、一|人《にん》外国の客と、流暢《りゅうちょう》に独逸《ドイツ》語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客《りょかく》があった。
こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母《たのも
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