て俯向《うつむ》いた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
 と云いかけて莞爾《かんじ》として、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
 と横顔へ煙を吹くと、
「引掻《ひっか》いてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」と呟《つぶや》いて出ようとする。
「おい、阿婆《おっかあ》は?」
「もう寐《ね》ました。」
「いや、老人《としより》はそう有りたい。」
 座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返《ひっかえ》して、
「姉さんは、もう先方《むこう》は出たそうですわ。」
 云う間程なく、矢を射るような腕車《くるま》一台、からからと門《かど》に着いたと思うと、
「唯今《ただいま》!」と車夫の声。

       三十八

「そうかい。」
 と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖《ふすま》音なく、すらりと開《あ》いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
 瓜核顔《うりざねがお》の、鼻の準縄《じんじょう》な、目の柔和《やさし》い、心ばかり面窶《おもやつれ》がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際《はえぎわ》の可《い》い、洗い髪を引詰《ひッつ》めた総髪《そうがみ》の銀杏返《いちょうがえ》しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶《つや》の涼しさ。撫肩の衣紋《えもん》つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦《おんな》の母親なら、芸者家の阿婆《おっかあ》でも、早寝をしよう、と頷《うなず》かれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
 と主税の方へ挨拶して、微笑《ほほえ》みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着《もんつき》二枚|袷《あわせ》、藍気鼠《あいけねずみ》の半襟、白茶地《しらちゃじ》に翁格子《おきなごうし》の博多の丸帯、古代模様空色|縮緬《ちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》、慎ましやかに、酒井に引添《ひっそ》うた風采《とりなり》は、左支《さしつか》えなく頭《つむり》が下るが、分けてその夜《よ》の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌|宜《よ》う、」と会釈をする。
 その時、先生|撫然《ぶぜん》として、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
 これに一言句《ひともんく》あるべき処を、姉さんは柔順《おとなし》いから、
「お出花が冷くなって、」
 と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓《ひじかけまど》から、暗い雨落へ、ざぶりと覆《かえ》すと、斜めに見返って、
「大《おおき》な湯覆《ゆこぼ》しだな、お前ン許《とこ》のは。」
「あんな事ばかり云って、」
 と、主税を見て莞爾《にっこり》して、白歯を染めても似合う年紀《とし》、少しも浮いた様子は見えぬ。
 それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注《つ》いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
 酒井は軽《かる》く襟を扱《しご》いて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
 と横目で見て、嬉しそうに笑《えみ》を含む。
「いずれ不漁《しけ》さ。」
 と打棄《うっちゃ》るように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が更《あらた》まった。
「ええ。」
「先刻《さっき》の三世相を見せろ。」
 一仔細《ひとしさい》なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞《いな》むべき数《すう》ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下《もと》に、先生の手に、もじもじと奉る。
 引取《ひっと》って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆《きも》を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色《おももち》で、覗込《のぞきこ》んで、
「心当りでも出来たんですか。」
 不答《こたえず》。煙草の喫《すい》さしを灰の中へ邪険に突込《つっこ》み、
「何は、どうした。」
 と唐突《だしぬけ》に聞かれたので、小芳は恍惚《うっとり》したように、酒井の顔を視《なが》めると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨《うま》い、景気の可《い》い、」
 いいいい本を引返《ひっかえ》して、
「扱帯《しごき》で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
 と凝《じっ》と見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
 と云って、喫いかけた煙管《きせる》を忘れる。
 主税は天窓《あたま》から悚然《ぞっ》とした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手《のて》になって容子を
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