、久闊《しばらく》懸違《かけちが》っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言《ことば》は、太《いた》く主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
これで突放されたようになって、思わず後退《あとしざ》りすること三尺半。
この前《さき》の、原一つ越した横町が、先生の住居《すまい》である。そなたに向って行くのに、従って歩行《ある》くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
酒井がずッと歩行《ある》き出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅《おかえり》でございますか。」
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は措《お》いても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足|引返《ひっかえ》したが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒《えいざ》めだ。」と、衣紋《えもん》を揺《ゆす》って、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊《ひきし》めた腕組になったと思うと、林檎《りんご》の綺麗な、芭蕉実《バナナ》の芬《ふん》と薫る、燈《あかり》の真蒼《まっさお》な、明《あかる》い水菓子屋の角を曲って、猶予《ためら》わず衝《つ》と横町の暗がりへ入った。
下宿屋の瓦斯《がす》は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪|気《け》でいらっしゃいますそうで、不可《いけ》ませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお寐《やす》みだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附《かたづ》いております、先《せん》のお光《みつ》をお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、娘《こども》が出歩行《である》くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
と少し言《ことば》が和らいで来たので、主税は吻《ほっ》と呼吸《いき》を吐《つ》いて、はじめて持扱った三世相を懐中《ふところ》へ始末をすると、壱岐殿坂《いきどのざか》の下口《おりぐち》で、急な不意打。
「お前の許《とこ》でも皆《みんな》健康《たっしゃ》か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事《ただごと》でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳《ひがみみ》であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠《ぞうへい》の夜の光景は、楽天的に視《ながめ》ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々《ごうごう》と轟《とどろ》く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が真白《まっしろ》な滝のように横ざまに漲《みなぎ》って路を塞いだ。
やがて、水道橋の袂《たもと》に着く――酒井はその雲に駕《が》して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨《まきたばこ》を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄《もえぎ》の光が、ぱらぱらと暗《やみ》に散ると、炬《きょ》のごとく輝く星が、人を乗せて衝《つ》と外濠《そとぼり》を流れて来た。
電車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜《よ》、道学者坂田礼之進は、渠《かれ》が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委《くわ》しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌《しゃべ》ったり……と云うと尾籠《びろう》になる。紳士貴婦人が互に相親睦《あいしんぼく》する集会で、談政治に渉《わた》ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇《しょうび》薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめ[#「おしめ」に傍点]と襷《たすき》を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児《こども》が泣く。町内迷惑な……その、男女交際
前へ
次へ
全107ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング