ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興《とんきょう》に馴々しく声を懸けた者がある。
 玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩《まばゆ》い日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫《わかいしゅ》。
 おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕《あばた》のある立派な旦那が。
 来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。終《しまい》にゃ、き様、お伴をするだろう、懸《かか》りつけの医師《いしゃ》はどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
 台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう賞《ほ》めて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が極《きま》りますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と燥《はしゃ》いだ。
 余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
 曲角の漬物屋、ここいらへも探偵《いぬ》が入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌《しゃべり》をする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに睨《にら》むと、腰かけ込んだ学生を対手《あいて》に、そのまた金歯の目立つ事。
 内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜《うらない》の前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに鬱《ふさ》ぐ。
 もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
 一日|措《お》いて、主税が自分|嘱《たの》まれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、頤《あご》を撫でながら、じろじろ門札を視《なが》めていたのが、坂田礼之進。
 早やここから歯をスーと吸って、先刻《さっき》からお待ち申して……はちと変だ。
 さては誰も物申《ものもう》に応うるものが無かったのであろう。女中《おんな》は外出《そとで》で? お蔦は隠れた。……
 無人《ぶにん》で失礼。
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