ッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
 と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌《さば》く裳《もすそ》の音。

       七

 市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌《あわただ》しさ、主税は足早に続く咄嗟《とっさ》で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日《きのう》汽車の中で、夫人を女|俳優《やくしゃ》だと、外人に揶揄《やゆ》一番した、ああ、祟《たたり》だ、と気が付いた。
 気が付いて、莞爾《かんじ》とした時、渠《かれ》の眼《まなこ》は口許《くちもと》に似ず鋭かった。
 ちょうどその横が十畳で、客室《きゃくま》らしい造《つくり》だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
 主税が猶予《ためら》うと、
「あら、座敷を覗《のぞ》いちゃ不可《いけ》ません、まだ散らかっているんですから、」
 と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白《かすり》の紺も鮮麗《あざやか》に、部屋へ入っている夫人が、どこから見透《みすか》したろうと驚いたその目の色まで、歴然《ありあり》と映っている。
 姿見の前に、長椅子《ソオフア》一脚、広縁だから、十分に余裕《ゆとり》がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉《おしろい》の類《たぐい》、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
 薄萌葱《うすもえぎ》の窓掛を、件《くだん》の長椅子《ソオフア》と雨戸の間《あい》へ引掛《ひっか》けて、幕が明いたように、絞った裙《すそ》が靡《なび》いている。車で見た合歓《ねむ》の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本《ふたもと》三本《みもと》を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
 地を坤軸《こんじく》から掘覆《ほりかえ》して、将棊倒《しょうぎだおし》に凭《よ》せかけたような、あらゆる峰を麓《ふもと》に抱《いだ》いて、折からの蒼空《あおぞら》に、雪なす袖を飜《ひるがえ》して、軽くその薄紅《うすくれない》の合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居《おすまい》でございま
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