《かいな》を仰向けに窓に投げて、がっくり鬢《びん》を枕するごとく、果は腰帯の弛《ゆる》んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻《みまも》って、物打語るに疲れなかった。


     草深辺

       六

 県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時《ひとしきり》は魔の所有《もの》に寂寞《ひっそり》する、草深町《くさぶかまち》は静岡の侍小路《さむらいこうじ》を、カラカラと挽《ひ》いて通る、一台、艶《つや》やかな幌《ほろ》に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込《けこ》み、友染の背《せなか》当てした、高台細骨の車があった。
 あの、音《ね》の冴えた、軽い車の軋《きし》る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日《きのう》東京から帰った筈《はず》。それ、衣更《ころもが》えの姿を見よ、と小橋の上で留《とま》るやら、旦那を送り出して引込《ひっこん》だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶《はねつるべ》の手を休めるやら、女|連《づれ》が上も下も斉《ひと》しく見る目を聳《そばだ》てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角《あいかど》の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人《おくがた》に乗初《のりそ》めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物《かぶりもの》なしに駈けるのであった。
 ものの半時ばかり経《た》つと、同じ腕車《くるま》は、通《とおり》の方から勢《いきおい》よく茶畑を走って、草深の町へ曳込《ひきこ》んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房《かみさん》などは、若竹座へ乗込んだ俳優《やくしゃ》だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立《ついたて》の蔭になって差覗《さしのぞ》いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演《す》るという新俳優の、あれは貫一に扮《な》る誰かだ、と立騒いだ。
 主税がまた此地《こっち》へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放《なぎはな》しの頭髪《かみ》も洗ったよう
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