になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々|御尤《ごもっとも》なんだから、一言もなしに、御新造も身を退《ひ》いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、お前《めえ》さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、忍《ま》けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順《すなお》に別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
 だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸《すり》が遣損《やッそく》なって、人中で面《つら》を打《ぶ》たれながら、お助け、と瞬《まばたき》するから、そこア男だ。諾来《よしき》た、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露《ばれ》たんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際《つきええ》が面倒臭くなったから、引払《ひッぱら》って駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退《ひ》かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、皆《みんな》、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
 と乗気になって、め[#「め」に傍点]組の惣助、停車場《ステイション》で手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。近火《きんか》のようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様《おおやさん》が、お前《め》さん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度|払《はたき》を掛けて、縁側を拭《ふ》き直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
 私《わっし》は、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を惜《おし》がったから、莟《つぼみ》を交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房《かみさん》とで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、
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