と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の俤《おもかげ》は、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋《えもん》を気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒《うすらさむ》そうで風采《とりなり》も沈んだのに、唇が真黒《まっくろ》だったは、杜若《かきつばた》を描《か》く墨の、紫の雫《しずく》を含んだのであろう、艶《えん》に媚《なま》めかしく、且つ寂しく、翌日《あす》の朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を掠《かす》めてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌|宜《よ》う。」
「貴下も。」とただ一言、無量の情《なさけ》が籠ったのである。
靴を穿《は》いて格子を出るのを、お妙は洋燈を背《せな》にして、框《かまち》の障子に掴《つか》まって、熟《じっ》と覗くように見送りながら、
「さようなら。」
と勢《いきおい》よく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達《ともだち》と別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は拗《す》ねた状《さま》に顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく掌《たなそこ》で擦《こす》ったが、背《せな》を捻《よ》って、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方《あなた》の茶の間を覗くと、長火鉢の傍《わき》の釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中《おさん》の有様。
ちょいと、風邪を引くよ、と先刻《さっき》から、隣座敷の机に恁《よ》っかかって絵を描《か》きながら、低声《こごえ》で気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが疾《はや》いか、身動《みじろ》ぎに端が解けた、しどけない扱帯《しごき》の紅《くれない》。
五十九
「厭《いや》よ、主税さん、地方《いなか》へ行っては。」
とお妙の手は、井戸端の梅に縋《すが》ったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、地方《いなか》へなんぞ行ってしまっては。」
主税は四辺《あたり》を見たのであろう、闇《やみ》の青葉に帽子《
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