ドン粗略《ぞんざい》に下りたのは、名を主税《ちから》という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝《どぶ》なる連弾《つれびき》を見届けようと、やにわにその蓋を払っため[#「め」に傍点]組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退《ひ》いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈《かが》めて、立直った束髪は、前刻《さっき》から風説《うわさ》のあった、河野の母親と云う女性《にょしょう》。
黒の紋羽二重の紋着《もんつき》羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰《せがれ》が学士だ先生だというのでも、大略《あらまし》知れた年紀《とし》は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶《つや》が見えた。
背は高いが、小肥《こぶとり》に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢《としごろ》には御難だけれども、この位な年配で、服装《みなり》が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛《ショオル》をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾《みだしなみ》の一ツで、貴婦人《あなた》方は、菖蒲《あやめ》が過ぎても遊ばさるる。
直ぐに御歩行《おはこび》かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌《は》めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱《しご》いた時、襦袢《じゅばん》の裏の紅いのがチラリと翻《かえ》る。
年紀《とし》のほどを心づもりに知っため[#「め」に傍点]組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸《うなじ》を窘《すく》めた処へ、
「まだ、花道かい?」
とお蔦が低声《こごえ》。
「附際《つけぎわ》々々、」
ともう一息め[#「め」に傍点]組の首を縮《すく》める時、先方《さき》は格子戸に立かけた蝙蝠傘《こうもりがさ》を手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山《だくさん》だ。いよう!」
おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹《きっ》と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである
前へ
次へ
全214ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング