説《うわさ》を、耳を澄まして聞き取りながら、太《いた》く憂わしげな面色《おももち》で。
 実際|鬱込《ふさぎこ》んでいるのはなぜか。
 忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨《にら》むがごとくにしていることを。

       三十五

 鬱ぐも道理《ことわり》、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
 もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線《そとぼりせん》に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居《すまい》へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜《りん》として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生《ばちりしょう》ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙《すく》んで、僥倖《さいわい》そこでも乗客《のりて》が込んだ、人蔭になって、眩《まばゆ》い大目玉の光から、顔を躱《か》わして免《まぬか》れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件《くだん》の売卜者《うらない》の行燈《あんどう》が、真黒《まっくろ》な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺《あたり》から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸《とむね》を支《つ》いたのは、お蔦の儀。
 ひとえに御目玉の可恐《おそろし》いのも、何を秘《かく》そう繻子《しゅす》の帯に極《きわま》ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音《あしおと》は、聞覚えている。
 その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信《おとず》れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特《こと》に、似たもの夫婦の譬《たとえ》、信玄流の沈勇の方ではないから、随分|飜然《ひらり》と露《あらわ》れ兼ねない。
 いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
 あいにく例《いつも》のように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行《ある》いたので、とこう云う間《ひま》もなかった、早や我家
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