れ土手へ、萎々《なえなえ》となって腰を支《つ》いた。前刻の婦《おんな》は、勿論の事、もう居ない。が、まだいくらほどの時も経《た》たぬと見えて、人の来て汲《く》むものも、菜を洗うものもなかったのである。
 ほかほかとおなじ日向《ひなた》に、藤豆の花が目を円く渠を見た。……あの草履を嬲《なぶ》ったのが羨《うらやま》しい……赤蜻蛉が笑っている。
「見せようか。」
 仰向《あおむ》けに、鐘を見つつ、そこをちらちらする蜻蛉に向って、自棄《やけ》に言った。
「いや、……自分で拝もう。」
 時に青空に霧をかけた釣鐘が、たちまち黒く頭上を蔽うて、破納屋《やれなや》の石臼も眼《まなこ》が窪み口が欠けて髑髏《しゃりこうべ》のように見え、曼珠沙華《まんじゅしゃげ》も鬼火に燃えて、四辺《あたり》が真暗《まっくら》になったのは、眩《めくるめ》く心地がしたからである。――いかに、いかに、写真が歴々《ありあり》と胸に抱いていた、毛糸帽子、麻の葉鹿の子のむつぎの嬰児《あかんぼ》が、美女の袖を消えて、拭《ぬぐ》って除《と》ったように、なくなっていたのであるから。
 樹島はほとんど目をつむって、ましぐらに摩耶夫人の御堂に駈戻《かけもど》った。あえて目をつむってと言う、金剛神の草鞋が、彼奴《きゃつ》の尻をたたき戻した事は言うまでもない。
 夫人の壇に戻し参らせた時は、伏せたままでソと置いた。嬰児《あかんぼ》が、再び写真に戻ったかどうかは、疑うだけの勇気はなかったそうである。

「いや、何といたしまして。……棚に、そこにござります。金、極彩色の、……は、そちらの素木彫《しらきぼり》の。……いや、何といたして、古人の名作。ど、ど、どれも諸家様の御秘蔵にござりますが、少々ずつ修覆をいたす処がありまして、お預り申しておりますので。――はい、店口にござります、その紫の袈裟《けさ》を召したのは私《てまえ》が刻みました。祖師のお像《すがた》でござりますが、喜撰法師のように見えます処が、業《わざ》の至りませぬ、不束《ふつつか》ゆえで。」
 と、淳朴《じゅんぼく》な仏師が、やや吶《ども》って口重く、まじりと言う。
 しかしこれは、工人の器量を試みようとして、棚の壇に飾った仏体に対して試《こころみ》に聞いたのではない。もうこの時は、樹島は既に摩耶夫人の像を依頼したあとだったのである。
 一山に寺々を構えた、その一谷《ひとたに》を町口へ出はずれの窮路、陋巷《ろうこう》といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭《にお》う中に、芬《ぷん》と白檀《びゃくだん》の薫《かおり》が立った。小さな仏師の家であった。
 一小間《ひとこま》硝子《がらす》を張って、小形の仏龕《ぶつがん》、塔のうつし、その祖師の像《かたち》などを並べた下に、年紀《としごろ》はまだ若そうだが、額のぬけ上った、そして円顔で、眉の濃い、目の柔和な男が、道の向うさがりに大きな塵塚《ちりづか》に対しつつ、口をへの字|形《なり》に結んで泰然として、胡坐《あぐら》で細工盤に向っていた。「少々拝見を、」と云って、樹島は静《しずか》に土間へ入って、――あとで聞いた預りものだという仏《ぶつ》、菩薩《ぼさつ》の種々相を礼しつつ、「ただ試みに承りたい。大《おおき》なこのくらいの像《すがた》を一体は。」とおおよその値段を当った。――冷々《ひやひや》とした侘住居《わびずまい》である。木綿縞《もめんじま》の膝掛《ひざかけ》を払って、筒袖のどんつくを着た膝を居《すわ》り直って、それから挨拶した。そッときいて、……内心恐れた工料の、心づもりよりは五分の一だったのに勢《いきおい》を得て、すぐに一体を誂《あつら》えたのであった。――
「……なれども、おみだしに預りました御註文……別して東京へお持ちになります事で、なりたけ、丹、丹精を抽《ぬき》んでまして。」
 と吃《ども》って言う。
「あなた、仏様に御丹精は、それは実に結構ですが、お礼がお礼なんですから、お骨折ではかえって恐縮です。……それに、……唯今《ただいま》も申しました通り、然るべき仏壇の用意もありません。勿体なくありません限り、床の間か、戸袋の上へでもお据え申そうと思いますから、かたがた草双紙|風俗《ふう》にとお願い申したほどなんです。――本式ではありません。※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》のお姿では勿体ないと思うのですから。……お心安く願います。」
「はい、一応は心得ましてござります。なお念のために伺いますが、それでは、むかし御殿のお姫様、奥方のお姿でござりますな。」
「草双紙の絵ですよ。本があると都合がいいな。」
 樹島は巻莨《まきたばこ》を吸いさして打案じつつ、
「倭文庫《やまとぶんこ》。……」
「え、え、釈迦八相――師匠の家にございまして、私《てまえ
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