と怪我《けが》があるんでして……よく、その姐《ねえ》さんは御無事でした。この贄川の川上、御嶽口《おんたけぐち》。美濃《みの》寄りの峡《かい》は、よけいに取れますが、その方《かた》の場所はどこでございますか存じません――芸妓衆《げいしゃしゅう》は東京のどちらの方《かた》で。」
「なに、下町の方ですがね。」
「柳橋……」
 と言って、覗《のぞ》くように、じっと見た。
「……あるいはその新橋とか申します……」
「いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。」
「お処が分かって差支《さしつか》えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智慧《ちえ》には及びません――」
 女中も俯向《うつむ》いて暗い顔した。
 境は、この場合|誰《だれ》もしよう、乗り出しながら、
「何か、この辺に変わったことでも。」
「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも淵《ふち》がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました鶫《つぐみ》は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口《とうげぐち》で猟があったのでございます。」
「さあ、それなんですよ。」
 境はあらためて猪口《ちょく》をうけつつ、
「料理番さん。きみのお手際《てぎわ》で膳《ぜん》につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、香《かんば》しく、脂《あぶら》の垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓《げいしゃ》の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて聳《そび》えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの面《つら》だから、その芸妓のような、凄《すご》く美しく、山の神の化身《けしん》のようには見えまいがね。落ち残った柿《かき》だと思って、窓の外から烏《からす》が突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。」
「お米さん――電燈《でんき》がなぜか、遅いでないか。」
 料理番が沈んだ声で言った。
 時雨《しぐれ》は晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。奈良井川《ならいがわ》の瀬が響く。

      二

「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と暗夜《やみよ》の庭の雪の中で。
「鷺《さぎ》が来て、魚《うお》を狙《ねら》うんでございます。」
 すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
「人間《ひと》が落ちたか、獺《かわうそ》でも駈《か》け廻《まわ》るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
 これは、その翌日の晩、おなじ旅店《はたごや》の、下《した》座敷でのことであった。……

 境は奈良井宿に逗留《とうりゅう》した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を鍋《なべ》でと誂《あつら》えたのは、しゃも、かしわをするように、膳《ぜん》のわきで火鉢《ひばち》へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊《めざる》に一杯、葱《ねぎ》のざくざくを添えて、醤油《しょうゆ》も砂糖も、むきだしに担《かつ》ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
 越《こし》の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫|御料理《おんりょうり》、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫|蕎麦《そば》と蕎麦屋までが貼紙《びら》を張る。ただし安価《やす》くない。何の椀《わん》、どの鉢《はち》に使っても、おん羮《あつもの》、おん小蓋《こぶた》の見識で。ぽっちり三臠《みきれ》、五臠《いつきれ》よりは附けないのに、葱と一所《ひとつ》に打《ぶ》ち覆《ま》けて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは嬉《うれ》しい。
 あまっさえ熱燗《あつかん》で、熊《くま》の皮に胡坐《あぐら》で居た。
 芸妓《げいしゃ》の化けものが、山賊にかわったのである。
 寝る時には、厚衾《あつぶすま》に、この熊《くま》の皮が上へ被《かぶ》さって、袖《そで》を包み、蔽《おお》い、裙《すそ》を包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐《よあらし》の、じんと身に浸《し》むのも、木曾川の瀬の凄《すご》いのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
 次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて啜《すす》るような豆腐の汁《しる》も気に入った。
 一昨日《
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