して、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私《てまい》なんでございました。……
 お支度《したく》がよろしくばと、私《てまい》、これへ……このお座敷へ提灯《ちょうちん》を持って伺いますと……」
「ああ、二つ巴《どもえ》の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
 と暗く、含むような、頤《おとがい》で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に点《つ》いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点《つ》けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
 この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠《あいねずみ》がお顔の影に藤色《ふじいろ》になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
 境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口《くち》で、烏金《しゃくどう》で張った煙管《きせる》で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙《かいし》をな、眉《まゆ》にあてて私《てまい》を、おも長に御覧なすって、
 ――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張《ほおば》ったように咽喉《のど》に支《つか》えた。
「畳のへりが、桔梗《ききょう》で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立《そりた》ての真青《まっさお》で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹《きょうだい》……いや一倍お綺麗《きれい》で)と罰《ばち》もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
 ここをお聞きなさいまし。」……

(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘《じゃのめ》で、見すぼらしい半纏《はんてん》で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦《おんな》とも言わず、お艶様――本妻が、その体《てい》では、情婦《いろ》だって工面《くめん》は悪うございます。目を煩《わず》らって、しばらく親許《おやもと》へ、納屋《なや》同然な二階借りで引き籠《こ》もって、内職に、娘子供に長唄《ながうた》なんか、さ
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