なって胸へ沁《し》みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体《もったい》ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視《なが》めまして、その面影《おもかげ》を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼《はね》の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私《てまい》がその顔の色と、怯《おび》えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩《ひとなだれ》になって遁《に》げ下《お》りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇《だいじゃ》がさっと追ったようで、遁げた私《てまい》は、野兎《のうさぎ》の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
 とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様《おんながみさま》とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私《てまい》はただ目が暗んでしまいましたが、前々《ぜんぜん》より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉《まゆ》をおとしていらっしゃりまするそうで……」
 境はゾッとしながら、かえって炬燵《こたつ》を傍《わき》へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端《は》、花の麓路《ふもとじ》、螢《ほたる》の影、時雨《しぐれ》の提灯《ちょうちん》、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口《ちょく》を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
 ――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家《やまが》へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」

      五

「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通《まおとこ》事件がございました。
 村入りの雁股《かりまた》と申す処《ところ》に(代官|婆《ばば》)という、庄屋《しょうや》のお婆《ばあ》さんと言えば、まだしおらしく聞こえま
前へ 次へ
全33ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング