ずき、土間に両手をつきざまに俯伏《うつぶし》になりて起きも上らず。お通はあたかも狂気のごとく、謙三郎に取縋《とりすが》りて、
「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった。」
 と肩に手を懸け膝に抱《いだ》ける、折から靴音、剣摩の響《ひびき》。五六名どやどやと入来《いりきた》りて、正体もなき謙三郎をお通の手より奪い取りて、有無を謂わせず引立《ひった》つるに、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》とばかり跳起《はねお》きたるまま、茫然として立ちたるお通の、歯をくいしばり、瞳を据えて、よろよろと僵《たお》れかかれる、肩を支えて、腕を掴《つか》みて、
「汝《うぬ》、どうするか、見ろ、太い奴だ。」
 これ婚姻の当夜以来、お通がいまだ一たびも聞かざりし鬱《うつ》し怒《いか》れる良人の声なり。

       四

 出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。
 謙三郎の死したる後《のち》も、清川の家における居馴れし八畳の渠《かれ》が書斎は、依然として旧態を更《あらた》めざりき。
 秋の末にもなりたれば、籐筵《とうむしろ》に代うるに秋野の錦《にしき》を浮織《うきおり》にせる、花毛氈《はなもうせん》をもってして、いと華々しく敷詰めたり。
 床なる花瓶の花も萎《しぼ》まず、西向の※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》の下《もと》なりし机の上も片づきて、硯《すずり》の蓋《ふた》に塵《ちり》もおかず、座蒲団《ざぶとん》を前に敷き、傍《かたわら》なる桐火桶《きりひおけ》に烏金《しゃくどう》の火箸《ひばし》を添えて、と見ればなかに炭火も活《い》けつ。
 紫《し》たんの角《かく》の茶盆の上には幾個の茶碗を俯伏《うつぶ》せて、菓子を装《も》りたる皿をも置けり。
 机の上には一葉の、謙三郎の写真を祭り、あたりの襖《ふすま》を閉切りたれば、さらでも秋の暮なるに、一室|森《しん》とほのあかるく四隅はようよう暗くなりて、ものの音さえ聞えざるに、火鉢に懸けたる鉄瓶の湯気のみ薄く立のぼりて、湯の沸《たぎ》る音|静《しずか》なり。折から彼方《かなた》より襖を明けつ。一脈の風の襲入《おそいい》りて、立昇る湯気の靡《なび》くと同時に、陰々たるこの書斎をば真白き顔の覗《のぞ》きしが、
「謙さん。」
 と呼び懸けつ。裳《もすそ》すらすら入りざま、ぴたと襖を立
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