学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のような好《い》いお日和ではありません、何ですか、しぐれて、曇って、寂しい暮方でございましたの。
やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。――油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、釣洋燈《つりらんぷ》の傍《そば》に立っていますと、その時はお寄りなさらないで、さっさと水道橋の方へ通越していらっしゃいました。
三崎座が刎《は》ねまして、両方へばらばら人通りがありました。それが途絶えましたちょうどあとで、お一人で、さっさと幟《のぼり》のかげへ見えなくおなんなすったんですが、燈《ひ》がつきました、まだ蕊《しん》の加減もしません処へ、変だ、変だ、取殺される、幽霊だ、ばけものだ、と帽子なんか、仰向けに、あなた……」
十
「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか――印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは蜘蛛《くも》の巣かと思ったよ、とそうおいいなさるものですから、狂犬《やまいぬ》でなくて、お仕合せ、蜘蛛ぐらい、幽霊も化ものも、まあ、大袈裟なことを、とおかしいようでございましたが、燈でよく、私も一所に、その中指を、じっと見ますと、女の髪の毛が巻きついているんでございましてね。」
「髪の毛ですえ、女の。」
お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の枯荵《かれしのぶ》の怪しい短冊の舌は、この時|朦朧《もうろう》として、滑稽《おどけ》が理に落ちて、寂しくなったし、鶏頭の赤さもやや陰翳《かげ》ったが、日はまだ冷くも寒くもない。娘の客は女房と親しさを増したのである。
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
お嬢さんは手を引込《ひっこ》めた。枯野の霧の緋葉《もみじ》ほど、三崎街道の人の目をひいたろう。色ある半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]も、安んじて袖の振《ふり》へ納った。が、うっかりした。その頬を拭《ぬぐ》った濡手拭は、火鉢の縁に掛《かか》っている。
女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「――学生さんの制服で駈戻《かけもど》って来なさいましたのは水道橋の方からでございましょう。お稲荷様の鳥居が一つ、跨《また》を上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は――そこの旅宿《やどや》と向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね――灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へ掛《かか》ったように思われたんでございますって。最初《はな》、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
身体《からだ》をもがいて払うほどの事じゃなし――声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉《のど》へ触りました、むずむずと、ぐうと扱《しご》くように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風《はふ》か、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯《じょうだん》でなくお思いなすったそうです。
芝居|好《ずき》な方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫《くるまや》と話がはずむと、壱岐殿坂の真中《まんなか》あたりで、俥夫《わかいしゅ》は吹消した提灯《かんばん》を、鼠に踏まえて、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》を鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口《がまぐち》を口に、忍術の一巻ですって、蹴込《けこみ》へ踞《しゃが》んで、頭までかくした赤毛布《あかげつと》を段々に、仁木弾正《にっきだんじよう》で糶上《せりあが》った処を、交番の巡査《おまわり》さんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
芝居のちっと先方《さき》へいらっしゃると、咽喉《のど》を、そのしめ加減が違って来て、呼吸《いき》にさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切《ひっき》るにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知った家《とこ》の洋燈《らんぷ》の灯を――それでもって、ええ。……
さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、
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