所にぶらぶら、皀莢《さいかち》の実で風に驚く……端銭《はした》もない、お葬式《とむらい》で無常は感じる、ここが隅田《おおかわ》で、小夜時雨《さよしぐれ》、浅草寺の鐘の声だと、身投げをすべき処だけれど、凡夫|壮《さかん》にして真昼間《まっぴるま》午後一時、風は吹いても日和はよしと……どうしても両国を乗越《のっこ》さないじゃ納まらない。弁持も洲崎に馴染《なじみ》があってね、洲崎の塩竈……松風|空風《からかぜ》遊びという、菓子台一枚で、女人とともに涅槃《ねはん》に入《い》ろう。……その一枚とさえいう処を、台ばかり。……菓子はこれだ、と袂から二人揃って、件《くだん》の塩竈を二包。……こいつには、笹川の剣士、平手造酒《ひらてみき》の片腕より女郎が反《そ》るぜ、痛快! となった処で――端銭もない。
ほかに工面のしようがないので、お伽堂へ大刀《だんびら》さ。
三崎町の土手を行ったり来たり、お伽堂の裏手になる。……なまじっか蘆《あし》がばらばらだから、直ぐ汐入《しおいり》の土手が目先にちらついて、気は逸《はや》るが、亭主が危い。……古本|漁《あさ》りに留守の様子は知ってるけれど、鉄壺眼《かなつぼまなこ》が光っては、と跼《しゃが》むわ、首を伸ばすわで、幸いあいてる腰窓から窺《うかが》って、大丈夫。店前《みせさき》へ廻ると、「いい話がある、内証だ。」といきなり女房を茶の間へ連込むと、長火鉢の向うへ坐るか坐らないに、「達引《たてひ》けよや。」と身構えた。「ありませんわ。」極《きま》ってら。「そこだ。」というと、言合わせたように、両方から詰寄るのと、両提から鉄砲張《てっぽうばり》を、両人、ともに引抜くのとほとんど同時さ、「身体《からだ》から借りたいんだ。」「あれえ、」といったぜ。いやみな色気だ、袖屏風《そでびょうぶ》で倒れやがる、片膝はみ出させた、蹴出《けだ》しでね。「騒ぐな。」と言句《もんく》は凄《すご》いぜ、が、二人とも左右に遁《に》げてね、さて、身体から珊瑚《さんご》の五分珠《ごぶだま》という釵《かんざし》を借りたんだがね。……この方の催促は、またそれ亭主が妬《や》くといういやなものが搦《から》んでさ、髻《たぶさ》を掴《つか》んで、引きずって、火箸《ひばし》で打《ぶ》たれました、などと手紙を寄越す、田舎芝居の責場があるから。」
「いや、はや、どうも。いや、どうも。」
屋根の雪がずるずると、窓下へ、どしんと響く。
弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、偏《ひとえ》に上杉さんに頼むんだ。……と云って俺《おれ》も若いものよ。あの娘《こ》を拝むとも言いたくないから、似合いだとか、頃合いだとか、そこは何とか、糸的《きみ》の心づもりで、糸的《きみ》の心からこの縁談を思いついたようによ、な、上杉さんに。」
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も――午砲《どん》! までも生きられない。ううむ。」
うむと唸《うな》って、徳利を枕にごろんとなると、辷《すべ》った徳利が勃然《むっく》と起き、弦光の頸窪《ぼんのくぼ》はころんと辷って、畳の縁《へり》で頭を抱える。
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生の許《とこ》へ駆附けよう。――湯に行きたいな。」
「勿論よ。清めてくれ。――婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか――池の端茅町の声でないよ、麻布|狸穴《まみあな》の音《おん》だ。ああ、返事と一所に、鶯を聞きたいなあ。」
やがて、水の流《ながれ》を前にして、眩《まばゆ》い日南《ひなた》の糸桜に、燦々《さんさん》と雪の咲いた、暖簾《のれん》の藍《あい》もぱっと明《あかる》い、桜湯の前へ立った。
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの石鹸《しゃぼん》なんか使わせやしない。お京さんの肌の香が芬《ぷん》とする、女持の小函《こばこ》をわざと持たせてあげるよ。」
悚然《ぞっ》として、糸七は不思議に女の肌を感じた。
「昨夜《ゆうべ》ふられているんだい。」
「おや。」
背中を、どしんと撲《くら》わせた。
「こいつ、こいつ。――しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。耳朶《みみたぶ》に女の髪の毛が巻きついているじゃないか。」
「頭巾を借りて被《かぶ》ったから、矢野《きみ》のだよ。ああ、何だか、急に、むずむずする。」
「長いなあ、長い、細い、真漆《まうるし》。……口惜《くやし》いが、俺のはこんな美人じゃない。待てここは二瀬よ。藍染川へ、忍川へ……流すは惜しい、桜の枝へ……」――
桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
上野の山の松杉の遠く真白《まっしろ》な中から、柳が青く綾《あや》に流れて、御堂
前へ
次へ
全38ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング