鳥居が一つ、跨《また》を上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は――そこの旅宿《やどや》と向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね――灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へ掛《かか》ったように思われたんでございますって。最初《はな》、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
 身体《からだ》をもがいて払うほどの事じゃなし――声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉《のど》へ触りました、むずむずと、ぐうと扱《しご》くように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風《はふ》か、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯《じょうだん》でなくお思いなすったそうです。
 芝居|好《ずき》な方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫《くるまや》と話がはずむと、壱岐殿坂の真中《まんなか》あたりで、俥夫《わかいしゅ》は吹消した提灯《かんばん》を、鼠に踏まえて、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》を鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口《がまぐち》を口に、忍術の一巻ですって、蹴込《けこみ》へ踞《しゃが》んで、頭までかくした赤毛布《あかげつと》を段々に、仁木弾正《にっきだんじよう》で糶上《せりあが》った処を、交番の巡査《おまわり》さんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
 芝居のちっと先方《さき》へいらっしゃると、咽喉《のど》を、そのしめ加減が違って来て、呼吸《いき》にさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
 縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切《ひっき》るにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知った家《とこ》の洋燈《らんぷ》の灯を――それでもって、ええ。……
 さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、
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