背負揚《しょいあげ》を、襟を、島田を、緋《ひ》の張襦袢《ながじゅばん》を、肌を。
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお媒妁《なこうど》なすった事を聞きました口惜《くや》しさに――女は、何をするか私にも分りません――あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所《よそ》へ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
と蒼《あお》い顔で、また熟《じっ》と視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄を圧《おさ》えても、帯をひしと掴《つか》んでも、搦《から》まる緋が炎でも、その中の雪の手首を衝《つ》と取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女《こあまっちょ》め。」
「何を小癪《こしゃく》な……チンツン」
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
黒鴨《くろがも》の俥夫《しゃふ》が、後《うしろ》から、横から、飛廻って、喚《わめ》くを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸|傍《わき》で待った俥の楫棒《かじぼう》を自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵《まきえ》が薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒の冷《ひや》の気を浴びて、正宗を、壜《びん》の口の切味《きれあじ》や、錵《にえ》も匂も金色《こんじき》に、梅を、朧《おぼろ》に湛《たた》えつつ、ぐいと飲み、ぐいと煽《あお》った――立続けた。
吻《ほっ》と吹く酒の香を、横|状《ざま》に反《そ》らしたのは、目前《めさき》に歴々《ありあり》とするお京の向合《むきあ》った面影に、心遣いをしたのである。
杯を持直して、
「別れだといいました
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