ひとし》く扇子を膝に支《つ》いて身体《からだ》ごと向直る……それにさえ一息して、
「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂《のぼりざか》の中途の処、煉瓦塀《れんがべい》が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸《いき》れの可恐《おそろし》い処でありましたよ。」
「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面《うしろ》の大畠《おおばたけ》が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫《えんしょうぐら》の黒塀について、上《のぼ》ったり、下《くだ》ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を覗《のぞ》いたり、通《とおり》を視《み》たり。
「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」
「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方《さき》ってのは。こう寂しくって疎在《まばら》でね、家《うち》の分りにくい処ですぜ。」と、煙草《たばこ》盆は有るものを、口許で燐寸《マッチ》を※[#「火+發」、301−2]《ぱっ》、と目を細うして仰向《あおむ》いて、半分消しておいた煙草をつける。
「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」
 と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、
「仔細《しさい》なく当方の願が届くかどうかの、さて、」
 と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも行《ゆ》きそうに聞えて、
「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が湧《わ》くようではない。ちと更《あらた》まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を被《こうむ》る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」
 紋着《もんつき》の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を伸《の》して、ひらりと焦茶の紐《ひも》を捌《さば》いて、縺《もつ》れたように手を控え、
「扮装《いでたち》ばかり凜々《りり》しいが、足許はやっぱり暗夜《やみ》じゃの。」と裾《すそ》も暗いように、また陰気。
 半纏着は腕組して、
「まったく、足許が悪いんですかい、負《おぶ》って行《ゆ》く事もならねえしと……隠居さん、提灯《ちょうちん》でも上げてえようだ。」
「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」
「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点《とも》っていまさあ。真紅《まっか》なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭《おまじない》になろうも知れませんや。」
「はあ、烏瓜の提灯か。」
 目を瞑《つむ》って、
「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという験《ためし》を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお痩《や》せた二の腕を扇子で擦《さす》る。

       四

「凍傷《しもやけ》の薬を売ってお歩行《ある》きなさりはしまいし、人。」
 と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身《たちみ》で圧《おさ》えて、
「可《い》い加減な、前例《ためし》にも禁厭《まじない》にも、烏瓜の提灯《ちょうちん》だなんぞと云って、狐が点《とぼ》すようじゃないかね。」
「狐が点す……何。」
 と顔を蔽《おお》うた皺《しわ》を払って、雲の晴れた目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る、と水を切った光が添った。
「何、狐が点すか。面白い。」
 扇子を颯《さっ》と胸に開くと、懐中《ふところ》を広く身を正して、
「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに点《とぼ》れて紅《あか》いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」
「ああ、隠居さん、気に入ったら私《わっし》が引《ひっ》ちぎって持って来らあ。……串戯《じょうだん》にゃ言ったからって、お年寄《としより》のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言《こごと》を言うめえ、どっこい。」と立つ。
 老人《としより》は肩を揉《も》んで、頭《こうべ》を下げ、
「これは何ともお手を頂く。」
「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親《おやじ》の命日よ。」
 と、葭簀《よしず》を出る、と入違いに境界の柵の弛《ゆる》んだ鋼線《はりがね》を跨《また》ぐ時、莨《たばこ》を勢《いきおい》よく、ポンと投げて、裏つきの破《やぶれ》足袋、ずしッと草を踏んだ。
 紅いその実は高かった。
 音が、かさかさと此方《こなた》に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子《なし》を食った獣《けもの》のごとく、向顱巻《むこうはちまき》で葉を分ける。
「気を付きょうぞ。少《わか》い人
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