申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事《ならいごと》じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許《くにもと》へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視《なが》めて、故郷《さと》に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出《おもいい》で、絶《たえ》て久しい可懐《なつかし》さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像《すがた》なり、天女、美女、よしや傾城《けいせい》の肖顔《にがお》にせい、美しい容色《きりょう》が肖《に》たと云うて、涙を流すならば仔細《しさい》ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。
 泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨《にら》ませて、動くことさえさせませなんだ。
 十六夜《いざよい》の夜半でござった。師匠の御新造の思召《おぼしめし》とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」
 と言《ことば》が途絶え、膝に、しかと拳《こぶし》を当て、
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大《おおき》な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。
 さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成《まかりな》る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年《おととし》果てました。老《おい》の身の杖柱、やがては家の芸のただ一|人《にん》の話|対手《あいて》、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念《かたみ》とも存じ、心腹を語ったに――いまは惜《おし》からぬ生命《いのち》と思い、世に亡い女房が遺言で、止《や》めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。
 この度の釣狐も、首尾よく化澄《ばけす》まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰《おもいつ》めたに、式《かた》のごとき恥辱を取る。
 さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方《あなた》のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女《あなた》、令嬢《おあねえさま》、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐《おそれ》多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……
 やあ、雁《がん》が鳴きます。」
「おお、……雁《かり》が鳴く。」

 与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、懐炉《かいろ》をお入れなさいまし、懐中《ふところ》に私《わたくし》が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」
「ええ!」と思わず、皺手《しわで》をかけたは、真綿のようなお町の手。
「親御様へお心遣い……あまつさえ外道《げどう》のような老人へ御気扱《おきあつかい》、前《ぜん》お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」
「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老《あなた》がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半《よなか》に莟《つぼ》む、この一輪の赤い花、露を傷《いた》んで萎《しお》れたのである。
 人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布《けっと》にひしと寄添《よりそ》ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗《のぞ》いた……
「これは……」
 老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦《から》んで落ちた、折本らしいものを見た。
「……町は基督《キリスト》教の学校へ行《ゆ》くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同《おんな》じに願掛《がんかけ》をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」
 与五郎野雪、これを聞くと、拳《こぶし》を握って、舞の構えに、正しく屹《きっ》と膝を立てて、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事《ただごと》ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射《さ》さぬが、暗《やみ》は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思《おもい》。この燈火《あかり》は貴女の導き。やあ、絵図面をお展《ひら》き下され、老人思う所存が出来た!」
 と熟《じっ》と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った、目の冴《さえ》は、勇士が剣《つるぎ》を撓《た》むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面《おもて》に――捻向《ねじむ》く血相、暗い影が颯《さっ》と射《さ》して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した
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