一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯《こだて》に踞《しゃが》んで、梨の皮を剥《む》いていたのが、ぺろりと、白い横銜《よこぐわ》えに声を掛ける。
真顔に、熟《じっ》と肩を細く、膝頭《ひざがしら》に手を置いて、
「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」
と思入ったらしく歎息《ためいき》したので、成程、服装《みなり》とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人《としより》の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気《しょげ》た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、
「ははは、野原や、山路《やまみち》のような事を言ってなさらあ、ははは。」
「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中|提灯《ちょうちん》でも松明《たいまつ》でも点《つ》けたらばと思う気がします。」
がっくりと俯向《うつむ》いて、
「頭《つむり》ばかりは光れども……」
つるりと撫《な》でた手、頸《ぼん》の窪《くぼ》。
「足許は暗《やみ》じゃが、のう。」と悄《しお》れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を笏《しゃく》。
と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す。葭簀《よしず》の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空《あおぞら》から、木《こ》の実が降って来たようであった。
三
半纏着は、急に日が蔭ったような足許《あしもと》から、目を上げて、兀《は》げた老人《としより》の頭《つむり》と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。
婆さんが口を出して、
「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」
「下谷《したや》じゃ。」
「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」
「いささかこの辺《あたり》へ用事があっての。当年たった一度、極暑《ごくしょ》の砌《みぎり》参ったばかり、一向に覚束《おぼつか》ない。その節通りがかりに見ました、大《おおき》な学校を当《あて》にいたした処、唯今《ただいま》立寄って見れば門が違うた。」
腕を伸《のば》して、来た方を指《ゆびさ》すと共に、斉《
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