牛豚開店と見ゆる。見世《みせ》ものではない。こりゃ牛鋪《ぎゅうや》じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。
 ほう、按腹鍼療《あんぷくしんりょう》、蒲生《がもう》鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨《うらやま》しい。おお、琴曲《きんきょく》教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床《おくゆかし》い事のう。――べ、べ、べ、べッかッこ。」
 と、ちょろりと舌を出して横舐《よこなめ》を、遣《や》ったのは、魚勘《うおかん》の小僧で、赤八、と云うが青い顔色《がんしょく》、岡持を振《ぶ》ら下げたなりで道草を食散らす。
 三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団《たどん》を干した薪屋《まきや》の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行《や》るのを見ながら、二三人共同栓に集《あつま》った、かみさん一人、これを聞いて、
「何だい、その言種《いいぐさ》は、活動写真のかい、おい。」
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚《ほ》れやあがってね。」
「ああ、あの別嬪《べっぴん》さんの。」
「そうよ、でね、其奴《そいつ》が、よぼよぼの爺《じじい》でね。」
「おや、へい。」
「色情狂《いろきちがい》で、おまけに狐憑《きつねつき》と来ていら。毎日のように、差配の家《うち》の前をうろついて附纏《つきまと》うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大《おおき》な旦那が襟首を持って引摺《ひきずり》出した。お嬢さんが縋《すが》りついて留めてたがね。へッ被成《なさる》もんだ、あの爺を庇《かば》う位なら、俺《おいら》の頬辺《ほっぺた》ぐらい指で突《つつ》いてくれるが可《い》い、と其奴が癪《しゃく》に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴《あしげ》に砂を打《ぶ》っかけて遁《に》げて来たんだ。
 それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯《じょうだん》じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、旦《だん》が踏潰《ふみつぶ》して怒ってると、そら、俺《おいら》を追掛《おっか》けやがる斑犬《ぶちいぬ》が、ぱくぱく食《くい》やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」
「分ったよ、昨日は。」
「その前《めえ》もね、毎日だ。どこか
前へ 次へ
全31ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング