鸚鵡《おうむ》を空に翳《かざ》した。
 紫玉の※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた瞳《め》には、確《たしか》に天際《てんさい》の僻辺《へきへん》に、美女の掌《て》に似た、白山《はくさん》は、白く清く映つたのである。
 毛筋《けすじ》ほどの雲も見えぬ。
 雨乞《あまごい》の雨は、いづれ後刻《ごこく》の事にして、其のまゝ壇を降《くだ》つたらば無事だつたらう。処《ところ》が、遠雷《えんらい》の音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に馴《な》れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前《まのあたり》鯉魚《りぎょ》の神異《しんい》を見た、怪しき僧の暗示と讖言《しんげん》を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖《そで》のやうに白山の眉《まゆ》に飜《ひるがえ》るであらうと信じて、須叟《しばし》を待つ間《ま》を、法壇を二廻《ふたまわ》り三廻《みまわ》り緋の袴《はかま》して輪に歩行《ある》いた。が、此は鎮守《ちんじゅ》の神巫《みこ》に似て、然《しか》もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
 群集の思はんほども憚《はばか》られて、腋《わき》の下に衝《つ》と冷《つめた》き汗を覚えたのこそ、天人《てんにん》の五衰《ごすい》のはじめとも言はう。
 気をかへて屹《きっ》と成つて、もの忘れした後見《こうけん》に烈《はげ》しくきつかけを渡す状《さま》に、紫玉は虚空《こくう》に向つて伯爵の鸚鵡《おうむ》を投げた。が、あの玩具《おもちゃ》の竹蜻蛉《たけとんぼ》のやうに、晃々《きらきら》と高く舞つた。
「大神楽《だいかぐら》!」
 と喚《わめ》いたのが第一番の半畳《はんじょう》で。
 一人|口火《くちび》を切つたから堪《たま》らない。練馬大根《ねりまだいこん》と言ふ、おかめと喚《わめ》く。雲の内侍《ないじ》と呼ぶ、雨《あめ》しよぼを踊れ、と怒鳴《どな》る。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒謗《ざんぼう》罵詈《ばり》は雷《いかずち》の如く哄《どっ》と沸《わ》く。
 鎌倉殿《かまくらどの》は、船中に於て嚇怒《かくど》した。愛寵《あいちょう》せる女優のために群集の無礼を憤《いきどお》つたのかと思ふと、――然《そ》うではない。這般《この》、好色の豪族は、疾《はや》く雨乞の験《しるし》なしと見て取ると、日の昨《さく》の、短夜《みじかよ》もはや半《なか》ばなりし紗《しゃ》の蚊帳《かや》の裡《うち》を想ひ出した。……
 雨乞のためとて、精進潔斎《しょうじんけっさい》させられたのであるから。
「漕《こ》げ。」
 紫幕《むらさきまく》の船は、矢を射《い》るように島へ走る。
 一度、駆下《かけお》りようとした紫玉の緋裳《ひもすそ》は、此の船の激しく襲つたために、一度|引留《ひきと》められたものである。
「…………」
 と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁《はくちょう》に豆烏帽子《まめえぼし》で傘《からかさ》を担《かつ》いだ宮奴《みややっこ》は、島になる幕の下を這《は》つて、ヌイと面《つら》を出した。
 すぐに此奴《こいつ》が法壇へ飛上《とびあが》つた、其の疾《はや》さ。
 紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする処《ところ》を、圧《おさ》へて、そして剥《は》いだ。
 女の身としてあられうか。
 あの、雪を束《つか》ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな状《さま》は、月を祭る供物《くもつ》に似て、非《あら》ず、旱魃《かんばつ》の鬼一口《おにひとくち》の犠牲《にえ》である。
 ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
 赤ら顔の大入道《おおにゅうどう》の、首抜きの浴衣《ゆかた》の尻を、七《しち》のづまで引《ひき》めくつたのが、苦《にが》り切つたる顔して、つか/\と、階《きざはし》を踏んで上《あが》つた、金方《きんかた》か何《なん》ぞであらう、芝居もので。
 肩を無手《むず》と取ると、
「何だ、状《ざま》は。小町《こまち》や静《しずか》ぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」
 手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日《れつじつ》に裂けかゝる氷のやうな練絹《ねりぎぬ》の、紫玉の、ふくよかな胸を、酒焼《さかやけ》の胸に引掴《ひっつか》み、毛脛《けずね》に挟んで、
「立たねえかい。」

        十三

「口惜《くや》しい!」
 紫玉は舷《ふなばた》に縋《すが》つて身を震はす。――真夜中の月の大池《おおいけ》に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮《すいれん》の如く漾《ただよ》ひつゝ。
「口惜しいねえ。」
 車馬《しゃば》の通行を留《と》めた場所とて、人目の恥に歩行《あゆ》みも成らず、――金方の計らひで、――万松亭《ばんしょうてい》と言ふ汀《みぎわ》なる料理店に、とに角《かく》引籠《ひっこも》る事に
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