ひ》いた、波の引返《ひっかえ》すのが棄《す》てた棹《さお》を攫《さら》つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。

        九

「……太夫様《たゆうさま》……太夫様。」
 偶《ふ》と紫玉は、宵闇《よいやみ》の森の下道《したみち》で真暗《まっくら》な大樹巨木の梢《こずえ》を仰いだ。……思ひ掛《が》けず空から呼掛《よびか》けたやうに聞えたのである。
「一寸《ちょっと》燈《あかり》を、……」
 玉野がぶら下げた料理屋の提灯《ちょうちん》を留《と》めさせて、さし交《かわ》す枝を透かしつゝ、――何事《なにごと》と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
 と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視《み》て居るから、
「まあ、そんな処《とこ》から。」
「然《そ》うだねえ。」
 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳《ひとみ》をそらす時、髷《まげ》に手を遣《や》つて、釵《かんざし》に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡《おうむ》である。
「此が呼んだのか知ら。」
 と微酔《ほろよい》の目元を花《はな》やかに莞爾《にっこり》すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭《いや》ですよ。」
 と仰山《ぎょうさん》に二人が怯《おび》えた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を怯《おびやか》しては不可《いけな》い。滝壺《たきつぼ》へ投沈《なげしず》めた同じ白金《プラチナ》の釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
 池で、船の中へ鯉が飛込《とびこ》むと、弟子たちが手を拍《う》つ、立騒《たちさわ》ぐ声が響いて、最初は女中が小船《こぶね》で来た。……島へ渡した細綱《ほそづな》を手繰《たぐ》つて、立ちながら操《あやつ》るのだが、馴《な》れたもので、あとを二押《ふたおし》三押《みおし》、屋形船《やかたぶね》へ来ると、由《よし》を聞き、魚《うお》を視て、「まあ、」と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた切《きり》、慌《あわただ》しく引返《ひきかへ》した。が、間《ま》もあらせず、今度は印半纏《しるしばんてん》を被《き》た若いものに船を操《と》らせて、亭主らしい年配《としごろ》な法体《ほったい》したのが漕《こ》ぎつけて、「これは/\太夫様《たゆうさま》。」亭主も逸時《いちはや》く其を知つて居て、恭《うやうや》しく挨拶《あいさつ》をした。浴衣《ゆかた》の上だけれど、紋の着いた薄羽織《うすばおり》を引《ひっ》かけて居たが、扨《さ》て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二|尺《しゃく》三|貫目《がんめ》は掛《かか》りませう。」とて、……及《およ》び腰《ごし》に覗《のぞ》いて魂消《たまげ》て居る若衆《わかいしゅ》に目配《めくば》せで頷《うなずか》せて、「恁《か》やうな大魚《たいぎょ》、然《しかし》も出世魚《しゅっせうお》と申す鯉魚《りぎょ》の、お船へ飛込《とびこ》みましたと言ふは、類希《たぐいまれ》な不思議な祥瑞《しょうずい》。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳《ごじんとく》。続きましては、手前|預《あずか》りまする池なり、所持の屋形船《やかたぶね》。烏滸《おこ》がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分《ふくぶん》、徳分《とくぶん》、未曾有《みぞう》の御人気《ごにんき》の、はや幾分かおこぼれを頂戴《ちょうだい》いたしたも同じ儀で、恁《か》やうな心嬉しい事はござりませぬ。尚《な》ほ恁《か》くの通りの旱魃《かんばつ》、市内は素《もと》より近郷《きんごう》隣国《りんごく》、唯《ただ》炎の中に悶《もだ》えまする時、希有《けう》の大魚《たいぎょ》の躍《おど》りましたは、甘露《かんろ》、法雨《ほうう》やがて、禽獣《きんじゅう》草木《そうもく》に到るまでも、雨に蘇生《よみがえ》りまする前表《ぜんぴょう》かとも存じまする。三宝《さんぽう》の利益《りやく》、四方《しほう》の大慶《たいけい》。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝《こころいわ》ひに、此の鯉魚《こい》を肴《さかな》に、祝うて一|献《こん》、心ばかりの粗酒《そしゅ》を差上《さしあ》げたう存じまする。先《ま》づ風情《ふぜい》はなくとも、あの島影《しまかげ》にお船を繋《つな》ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋《おもや》の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着《もんつき》の法然頭《ほうねんあたま》は、最《も》う屋形船の方へ腰を据《す》ゑた。
 若衆《わかいしゅ》に取寄《とりよ》せさせた、調度を控へて、島の柳に纜《もや》つた頃は、然《そ》うでもない、汀《みぎわ》の人立《ひとだち》を遮《さえぎ》るためと、用意の紫《むらさき》の幕を垂れた。「神慮《しんりょ》の鯉魚《りぎょ》、等閑《なおざり》にはいたしますまい。略儀ながら不束《ふつつか》な田舎《いなか
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