て居る。
忘れもしない、眼界《がんかい》の其の突当《つきあた》りが、昨夜《ゆうべ》まで、我あればこそ、電燭の宛然《さながら》水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
あゝ、一翳《いちえい》の雲もないのに、緑《みどり》紫《むらさき》紅《くれない》の旗の影が、ぱつと空を蔽《おお》ふまで、花《はな》やかに目に飜《ひるがえ》つた、唯《と》見ると颯《さっ》と近づいて、眉《まゆ》に近い樹々の枝に色鳥《いろどり》の種々《いろいろ》の影に映つた。
蓋《けだ》し劇場に向つて、高く翳《かざ》した手の指環の、玉の矜《ほこり》の幻影《まぼろし》である。
紫玉は、瞳《ひとみ》を返して、華奢《きゃしゃ》な指を、俯向《うつむ》いて視《み》つゝ莞爾《にっこり》した。
そして、すら/\と石橋《しゃっきょう》を前方《むこう》へ渡つた。それから、森を通る、姿は翠《みどり》に青ずむまで、静《しずか》に落着いて見えたけれど、二《ふた》ツ三《み》ツ重《かさな》つた不意の出来事に、心の騒いだのは争《あらそ》はれない。……涼傘《ひがさ》を置忘《おきわす》れたもの。……
森を高く抜けると、三国《さんごく》見霽《みはら》しの一面の広場に成る。赫《かっ》と射《い》る日に、手廂《てびさし》して恁《こ》う視《なが》むれば、松、桜、梅いろ/\樹の状《さま》、枝の振《ふり》の、各自《おのおの》名ある神仙《しんせん》の形を映すのみ。幸ひに可忌《いまわし》い坊主の影は、公園の一|木《ぼく》一|草《そう》をも妨《さまた》げず。又……人の往来《ゆきか》ふさへ殆《ほとん》どない。
一処《ひとところ》、大池《おおいけ》があつて、朱塗《しゅぬり》の船の、漣《さざなみ》に、浮いた汀《みぎわ》に、盛装した妙齢《としごろ》の派手《はで》な女が、番《つがい》の鴛鴦《おしどり》の宿るやうに目に留《とま》つた。
真白な顔が、揃《そろ》つて此方《こっち》を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠《ししょう》さーん。」
一人が最《も》う、空気草履《くうきぞうり》の、媚《なまめ》かしい褄捌《つまさば》きで駆けて来る、目鼻は玉江《たまえ》。……最《も》う一人は玉野《たまの》であつた。
紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な処《ところ》で、と言ひたいわね。見《けん》ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を悪戯《いたずら》をして居るの、お前さんたち。」
と連立《つれだ》つて寄る、汀《みぎわ》に居た玉野の手には、船首《みよし》へ掛けつゝ棹《さお》があつた。
舷《ふなばた》は藍《あい》、萌黄《もえぎ》の翼で、頭《かしら》にも尾にも紅《べに》を塗つた、鷁首《げきしゅ》の船の屋形造《やかたづくり》。玩具《おもちゃ》のやうだが四五人は乗れるであらう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩《はぎ》に庵《いおり》の見える、船主《ふなぬし》の料理屋には最《も》う交渉済《こうしょうずみ》で、二人は慰《なぐさ》みに、此から漕出《こぎだ》さうとする処《ところ》だつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束《おぼつか》なさに念を押すと、浅くて棹《さお》が届くのだから仔細ない。但《ただ》、一ヶ所|底《そこ》の知れない深水《ふかみず》の穴がある。竜《たつ》の口《くち》と称《とな》へて、此処《ここ》から下の滝の伏樋《ふせどい》に通ずるよし言伝《いいつた》へる、……危《あぶな》くはないけれど、其処《そこ》だけは除《よ》けたが可《よ》からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出《かけだ》して仕誼《ことわり》を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、彼処《あすこ》ですわ。」と玉野が指《ゆびさ》す、大池《おおいけ》を艮《うしとら》の方《かた》へ寄る処《ところ》に、板を浮かせて、小さな御幣《ごへい》が立つて居た。真中の築洲《つきず》に鶴《つる》ヶ|島《しま》と言ふのが見えて、祠《ほこら》に竜神《りゅうじん》を祠《まつ》ると聞く。……鷁首《げきしゅ》の船は、其の島へ志《こころざ》すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
「乗らうかね。」
と紫玉は最《も》う褄《つま》を巻くやうに、爪尖《つまさき》を揃《そろ》へながら、
「でも何だか。」
「あら、何故《なぜ》ですえ。」
「御幣まで立つて警戒をした処《ところ》があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「否《いいえ》、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断《ふだん》は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞《あまごい》だと言つて立てたんださうですの、此の旱《ひでり》ですから。」
八
岸をトンと盪《お》すと、屋形船《やかたぶね》は軽く出た。おや、房州で生
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